Magic 魔法

Cat's Magic  (猫の魔法)

目覚めの一杯、音立てて沸くケトルの音を背に、朝の日差しを浴びて伸びをする我が家の一人娘を眺める。艶の良い黒い毛、すらっと伸びた足、このちんまるこい姿に、ピンと立つ耳が映える。朝日をキラキラと反射させていて眩しい。
ずっと眺めていたくて後ろ髪を引かれる想いでキッチンへ向かう。一瞬の柱の間さえもったいない。片時も目を離したくなんてない。火を止めてケトルのお湯をドリップに注ぎ、感覚だけで傾げたケトルを戻す。
彼女は右足で顔を洗って、ぶるぶるっと体を震わせた。そうして外を眺めたと思ったら思い立ったかのように振り返って一鳴き、
にゃ〜ん♡
朝ごはんの時間だもの、彼女だってお腹が空く。
じわりじわりと落ちてゆくコーヒーを置いて、私は戸棚から猫缶を取り出す。食器棚から取り出したお皿の上に、いつものスプーンを使って盛りつける。
部屋の中を温かい日差しとまだ少し寒い風が抜けて、爽やかな春の陽気を盛りたてるようにウグイスの声が響く。
今日はいい天気だ。
彼女の元までお皿を運ぶさなか、パジャマの襟元を締めてそう思う。彼女はやってくる私を待ち切れないのか、駆けてやってくる。
カーペットの上にそっとお皿を二つ置いて、そわそわしている彼女を促す。言われなくても。そんな勢いで飛びつくように向かう。
チーン!
高く鳴り響いたトースターの音にさえ、朝ご飯に夢中な彼女は見向きもしない。その可愛い耳がぴくぴくって動いただけ。背をそっと撫でる私にはその艶やかなしっぽを少し浮かせて応えるも、やっぱり朝ご飯に夢中だ。
そんな朝ご飯に嫉妬するなあ。
軽く手を洗ってから飛び出したパンを取り上げて、出しておいた甘いお気に入りのハチミツをかける。注ぎ入れられたコーヒーにレンジにかけておいたミルクを入れて、準備完了。
朝ご飯をむしゃむしゃしている彼女の隣に並んで、
いただきます。
一人唱えて食パンをかじる。湯気が部屋を抜ける風に運ばれてすうっと尾を引くのを眺めながら、今日も頑張ろうって心の中で思う。
横に目を向けると、食べ終わったのか、彼女がその場にちんと座っている。そっと手をあげると、ぴょんと私の膝に飛び乗って、その場で丸くなってしまった。
心地良い重さを感じながら、食パンをそっと口に運ぶ。膝の上の彼女を愛でながら、そっとコップを口に寄せる。
あつッ……
慌ててふーふーして、少し痺れる舌を口の中でくるくる回す。
またやっちゃった……。
コップをテーブルの上に戻して、パンを食べるも、ひりひりとしているせいで感覚がない。柔らかな感触とハチミツの甘さだけが口にある。
にゃー。
少しだけこの可愛さがにくたらしい。

にゃん(娘)煩悩の朝は大変だ。会社へ向かう前に、玄関口で彼女と別れなきゃいけない。これが今生の別れというものか……!
……帰ってこればまた会える。外をヒールでひたひたと歩けば、その足音に気がついて玄関口にやってくる。鍵をドアに差し込んでガチャガチャしようものなら、
にゃーん♡
中から聞こえてくる彼女の声に、ノブに手をかける私はニヤニヤが止まらない。外から見ていればそれはとっても怪しい表情だろう。だけど安心して欲しい。誰かいるときはそっと深呼吸をする。
そうしてドアを開けると、ちょこんと座した彼女がぴょーんって胸元に飛んで来る。スーツは無論、そんなことなんて気にしないのがにゃん(娘)煩悩の務めでしょ? そうして手のうちにいる彼女をこれでもかと撫で回して愛でる。愛でる。愛でる。愛でまくる。されるがままごろごろ喉を鳴らす彼女は、このときを待ち侘びたかのようだ。いや、それは寧ろ私の方かもしれない。
そんな感動的で甘美な再会が待ち侘びているというのに朝は辛い。今日は春めいた陽気だけれど寒いとか、そういうことじゃない。スーツに着替えて玄関口、彼女はここで私と別れなければいけないことを知っている。箱入り娘、家猫なのだ。外に連れてゆくのはゲージの中だけ。すっかり黒くなった私の後をひたひたと付いてきて、玄関のマットの上に座って見上げてくる。毎回のように涙が出てきそうになるのをぐっと堪えて、靴べらを置いて言う。
行ってきます。
そうしてドアをそっと開けて、惜しみながら閉めるのだ。

みゃーのご主人さまは、そうやってこの家を出て行く。ここからがみゃーの時間、みゃーの世界。なんて言っても、この場所から出られるわけでもないんだけど。
とりあえず元いた部屋へと戻ることにする。今日は何してまーちゃんが戻ってくるのを待つことにしようかなーなんて考えていると思うかい? そんなことは全然ないよ。思うがまま、気ままに家の中をぶらぶらするだけ。
ちょっとあそこの戸棚が目に入ったら、思いついたままに飛び乗ってみる。こんなくらい朝飯前だ。もう食べたじゃないかって? 猫は細かいことなんて気にしない。楽しければいいんだ。
どうして人間たちは毎回細かいことにこだわるんだい? 大らかに生きればいいんだよ。
にゃーにゃー……。
ここはあんまり暖かくない。寧ろ冷たくってたまんない。そういうのは暑い季節にとっておけばいいんだよ。
戸棚の上も飽きたし、やっぱり元いた部屋に戻ることにしよう。あそこは日差しが入って暖かいんだ。ぽかぽかにゃ。春の陽気はたまんにゃい。
にゃー。やっぱりここにゃー。温かいんだにゃー。ぽかぽかにゃー。

にゃ!? にゃんだこの気配!? みゃーのテリトリーに何か違うものの存在を感じるにゃ!
ぽかぽかした陽気に絆(ほだ)されてすっかり眠ってしまっている間に、誰か入ってきたみたいだ。まーちゃんとは雰囲気が違う、もしかして泥棒とかいうもの?
何ができるってわけでもないけど、とりあえず様子を確認してみることにする。カーペットの上から立ち上がって、まずは伸びをする。
にゃー。
毛がもそもそするのでついでに身震い。
これで準備万端。
とりあえず部屋を見渡してみる。いつもと同じ、変わらない部屋。違いといえばまーちゃんがうっかり猫缶を片付け忘れているくらい。あとで舐めることにしよう。ここは相変わらず日差しが差し込んで暖かい。
この家は、この部屋と玄関に続く廊下、それから廊下の周りに幾つかドアがある。できればあまり入りたくない。あそこに入るとずぶ濡れにされてしまう。
そもそも開いてないから入れなかった。玄関までは移動できるので廊下の様子を見てみるけれど、特に変化はない。いつも通り。ここは日陰になっていてちょっと寒い。
もしかして、気のせい?
何もないのならまた日向に行ってお昼寝するだけ。まーちゃんがいないとのんびりするくらいしかすることがない。早く帰って来ないかなー。
そうやってさっきの部屋に戻ったら、カーペットの上に、
変な服を着た見たことのない猫がいたんだにゃ!
変な服とはなんじゃい、変な服とは!
にゃ!? 猫の心が読めるのかにゃ!? ああ、いつも一匹だから独り言垂れ流しだったんだにゃ……。
そんなことより、お前は誰だ!
しゃー!
普段使わない威嚇をこれでもかと使って言う。
わしの正体などどうでもよかろう?
どうでもよくなんかないにゃ! ここにはみゃーとまーちゃんしか入れないはずにゃ!
そんなことよりお主、もっと主人に近づきたくはないか?
軽くスルーされてしまう。渾身の威嚇がスルーされてしまうなんて……。でも、まーちゃんに近づくってどういう意味だろう? ……猫は警戒心が強いけど興味には弱いんだにゃ。……今のはごまかしのにゃにゃ。今のもごまかしのにゃにゃ。
今日はお試し、特別トライアルじゃ! 気に入ったらまた頼んでくれればいいんじゃ。その時は……分かっておるな?
分かっておるなって何をにゃ。とにかく、お試しとやら、気になる。気になるんだにゃ! 一体、何があるんだにゃ!?
お主は積極的じゃのう。それでは行くぞ!

にゃんにゃにーにゃ!

ぼわわわわわん……
そんな効果音も付けたくなるにゃ! 急にもわもわした煙に包まれたんだにゃ! にゃんにゃ!? にゃんにゃのにゃ!?
これで明日になるまでお主はもっと主人に近づけるじゃろう。にゃにが起こったのかって? 鏡でも見れば分かるじゃろうて。
そんな声が聞こえた気がした。もやもやした煙が晴れた頃にはもう誰もいなかった。
……にゃにが起こったにゃ?
鏡とか言っていた気がする。この部屋の、クローゼットの前に一つある。あとはあの入りたくない部屋の中。クローゼットの前に行って、自分の姿を……
にゃ、にゃんにゃこりゃー!
そこには見知った自分の姿はなかったにゃ! これはにゃんにゃんにゃ! まるでまーちゃんみたいにゃ! でも頭の上にみゃーの耳が付いてるにゃ! しっぽも付いてるにゃ! ついでに服なんか着てないにゃ! 素っ裸にゃ! 一体これはどういうことにゃ!? にゃにが起こったにゃ!? ……とりあえず落ち着くにゃ!
にゃ、にゃ、ふー。にゃ、にゃ、ふー。
これで少しは落ち着けただろうか。でもやっぱり人の姿だった。まーちゃんより一回り小さい。それにあんな大きな胸もなかった。
にゃー……。
そして、みゃーの耳が付いている。みゃーのしっぽも付いている。
くいっくいっ
いつも通りに動くらしい。しっぽもくねくねする。
まーちゃんに近づけるって、姿形が似るって意味かにゃ……?
でも、まーちゃんはこんな姿を見て、どう思うだろう?
……考えることは面倒くさいにゃ。猫は面倒くさいことは苦手だにゃ。とりあえず、この姿になったから、家の中を探検してみることにする。ちょっと怖いけど、あの部屋にも一人で入れるはずようになったはずだから。

こつ、こつ、こつ。
この足音は、どうやらまーちゃんが帰ってきたみたいだ。いつものように玄関に行って、カーペットの上に座る。そうしてこのドアが開くのを待つ。
まだかにゃ、まだかにゃ……
ドアがゆっくりと開く。いつもこの時が楽しみだ。あと少し……、あと少し……
あっ、そういえば今は人の姿だったにゃ! まーちゃんはこの姿を見てどう思うかにゃ!? どう思うんだにゃ!?
でも猫は細かいことなんて気にしないのにゃ! 気にしないことにしたんだにゃ!
いつも通り、あの胸に飛び込むのにゃ!!
タイトル
小説
トップ