Lope 軽走する

I will lope to see him.(彼に会って軽やかに駆けるだろう)

彼に会うのは、一ヶ月ぶりだろうか。
彼が住むのは隣の町で、距離も比較的近いのに、彼は言うには仕事が忙しいらしい。
おかげで、なかなか会うことができないのだ。
それがやっと、今日会うことができる。
私は、彼からそんな電話を昨日の夕方に受けていた。
「もしもし、眞唯?久しぶりに仕事が休みだから、明日会わないか?」
私が仕事から家に帰ってきて、疲れてベッドに軽く横になった頃に掛かってきた電話で、彼はそんな風に誘ってきた。
「えっ、本当?」
「ああ、いつものところに十時で」
「うん、わかった」
「じゃあ、また明日」
「うん」
短く用件だけが告げられた電話に、私は明日を楽しみにせずにはいられなかった。
そして次の日、つまりは今日。
私は、朝早くから身支度を整えた。
そして約束の時刻の半時間前に、駅に着くように図って、家を出た。
今は駅へと向かう往路の途中。
空は晴れ渡り、ところどころ小さな雲がふわふわと浮かんでいるものの、それほどは多くない。
この分だと、今日は予報通りに晴れそうだ。
空が晴れていると、気分までもが晴れ晴れするだろう。
私は何だか浮かれ調子で、気を許してしまうと、思わずスキップをしてしまいそうだった。
駅前のカフェにつく。
私たちが言ういつものところとは、このカフェのこと。
店内に客は疎らで、閑散としていた。
入り口から近い距離にあるテーブルの椅子に腰掛けて、やってきたウエイターにコーヒーを注文する。
傍にある棚からおもむろに雑誌を取り、それを何気なく開きながら私が彼に初めて会った時のことを思う。
しかしながら、彼はもっと以前に私に会ったことがあるらしい。
私には全く覚えなどないのだけれど、彼は"何か縁があって、また会うことになったんだろう"なんて、言っていた。
私は前々から、ここで会う以前に会ったとき、私がどんな格好をしていたのかが、気になっていた。
ただ、聞こう聞こうと思いつつも、いつも聞きそびれてしまっていた。
ところで、私たちがここで会ったのは一年半ぐらい前だった。
そのときの私はまだ大学生で、大学からの帰りに急にコーヒーが飲みたくなって、前々から少し気になっていたこのカフェへと入ってみることにした。
店内は、まるでヨーロッパのを思わせるような雰囲気で、私の第一印象として、おしゃれだなというイメージがあった。
私は、店内の中ほどにあるテーブルにつき、コーヒーを注文しようと、ウエイターが出てくるのを待っていた。
しばらくしてウエイターが出てきて、私がコーヒーを注文した時、私の隣の席に一人の男が座った。
その男こそが今の私の彼氏であって、彼は隣に座ったときに、私に"以前に会ったことはないか"と聞いていたのだった。
私の前に、ウエイターが立ち、一杯のコーヒーが置かれた。
彼はその隣に静かに伝票を置き、その場を静かに去っていった。
それを見届けた私は、その視線を雑誌へと戻し、再び記事を読み始めた。
私が雑誌を一通り見終えて、傍の棚にそれを戻した時、カフェのドアのベルが、静かに鳴った。
その音に気がつき、軽く見上げた先に、彼はいた。
「よっ、久しぶり」
ラフな格好をした彼は、軽く手を上げて私にそう挨拶する。
「うん、元気にしてた?」
「ああ、まあな」
彼はそう言いながら椅子をひき、私の隣の席に腰掛ける。
それを受けてか、先ほどのウエイターが彼の傍に現われて、彼に注文を尋ねた。
「彼女と同じものを」
彼はやってきたウエイターを見て、そう答えた。
ウエイターが彼の注文に対して了解すると、彼は再びこちらへ向き直してこう言った。
「実は、今日はどうしても話したいことがあって、ここへ来てもらったんだ」
改まったかのようにそう言う彼の声は、何処か余所余所しい雰囲気があり、違和感を感じずに入られなかった。
「実は、ブラジルに転勤になったんだ」
その時鳴ったカフェのドアのベルが、店内に異様に響いていた。
決して店内が静かであったというわけではない。
ただ、ベルの音が無駄に引き立って聞こえていたのだった。
「ブラジルに……?」
彼の言ったことをただ繰り返すことしかできない私は、あまりに唐突な彼の告白に驚いていた。
「あぁ……」
確認したわけじゃない。ただ、反復することしかできなかった。
彼の放った突然の告白に、それ以上の言葉を発することができなかった。
「急に決まった話で……。ここのところ仕事が忙しかったんだが、これだけは直接言っておきたくて」
彼は虚ろとなっている私の目をしっかりと見てそう言ったのだと思う。
でも、私にはその言葉を彼の発したものとして受け止めるだけでせいいっぱいで、それ以上の感覚は混沌としていた。
ブラジル、なんて……。
「眞唯?」
「えっ、ご、ごめん……」
気がつけば、彼の顔は私の目の前に在って、私の顔を覗き込んでいた。
その眼差しは心配そうで、そこに僅かな温かみを含んでいた。
「少し、外を歩かないか?」
コーヒーを飲み干した彼は、気分転換にとでも思ったのか、私を散歩に誘う。
私がその誘いに対して僅かながらに頷き、返事をすると、彼は伝票を持って立ち上がった。
「今日は俺の用だし、これは俺が払っておくよ」
彼はそう言って、レジのほうへと向かう。
私はそんな彼の後姿を眺めるだけで、一行に次のアクションを起こす気になれずにいた。
「眞唯、行くぞ?」
ドアの前で、彼が呼ぶ。
「うん……」
私の周りに流れる空気だけが、重い。
頭の中に漠然としたブラジルのイメージがあり、それが彼を何処か遠くへ連れて行くかのようだった。
空は、相変わらず晴れていた。
でも、少しもスキップなどしようという気分には、なれなかった。
「遠距離恋愛、か……」
少し高い場所から彼の声がして、それが少しこもったように、私の耳に響いていた。
「眞唯は、俺のこと待っていてくれるか?」
彼はゆっくり、しっかりと私にそう言う。
「……うん」
言われなくても、待っていたい。
彼がどれほど長く、あの国に行っていようとも……。
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