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Jump up to the next stage -Autumn Dusk- (次のステージへ 〜秋の夕暮れ〜)

数学の先生が黒板の前で数式を書いている最中、水野皓平は窓際の席からぼんやりと空に流れる雲を眺めていた。
机の上には数学の教科書と一冊のノート、それから幾らかの筆記用具が置かれていたが、彼の手にはそのどれも持たれてはいなかった。
教室には先生の書いた数式を書き写す音や教科書のページをめくる音などが当然のように響いている。
見慣れた光景、聞き慣れた音。いつもと同じように時が過ぎていく。
大きい雲がむっくりと動いて、小さい雲がふわふわと漂う様を見ていると、彼はざわざわとした心をゆっくりと落ちつけることができた。
悩ましいことも、辛いこともみんなそれほど大したことでもなかったかのように思えてくる。
彼にとって空を眺めるということはそういうことだった。
ただし、今日を除いて。

今朝の彼は何故か目覚めもよく目覚まし時計が鳴るよりも先に起きて、目覚ましはその役目を果たさないままアラーム機能を止められることとなった。
多少早い時間ではあったが、彼はいつも通り洗面台の前に立って顔を洗った後、台所へと向かった。
挨拶の後今日は早いわねと母親に声を掛けられたものの、だからと言って普段と大差もなかった。
いつも通り朝食を摂り朝の占いに内心一喜一憂して服を着替えて家を出る。
家から学校まではそう遠い距離ではないから普段通り徒歩で学校へ向かい、校門から学校へと入る。
ここまではよかった。
その後下駄箱から上履きを取り出そうとその扉を開けたところ、急にそこから一つの封筒が滑るように落ちてきた。
彼はそれを慌てて掴もうとしたが、敢えなく床へと落ちた。
その折りに裏返って見えた表紙には、「水野くんへ」とやや丸く小さい文字で書かれていた。
彼はしゃがんでそれを拾い上げ、矯(た)めつ眇(すが)めつ見る。
ピンク色の封筒に赤いイチゴのシールで留められたそれは、見るからに女の子からのものだった。
彼は辺りの様子を窺ってからそれをポケットの中へとこっそり潜ませて、まずは教室へと向かい荷物を机へと下ろしてから、一人トイレの個室へと向かうのだった。

中の便箋には、前からずっと好きだったということ、今日の放課後教室に残っていて欲しいということ。
それが綺麗な字面で書かれてあった。
ただ、そこに名前はなかった。明らかにラブレターだというのにその相手は分からないまま。
そんな状況が彼の目線をずっと空へと向けさせていた。
彼が今日教室へと最初に入って来た時には既にある程度人がいたからそこから推測することもできずにいたし、戻って来た時の反応からも推測することはできていなかった。
それに取り立てて心当たりがあったわけでもない。
どうあれ、結局は分からず終い。
元より彼は聞かなくてもある程度分かるために授業を聞く気もなかったが、手紙の一件が彼をよりそんなことから遠ざけていた。
彼がぼんやりと眺める空には、依然として雲がゆっくりと流れていた。
ぷかぷかと漂うように流れる雲はそれでいて一定の規則を以って動いている。
彼がこうあるのもまるで雲が次にあの場所まで流れていくように風に導かれたものだろうか。
彼がそんなことを考えていたかどうか分からないが、未だ彼の頭にはあの手紙の送り主のことがあった。
こうして空を眺めている間、遠くからここに視線を寄せたりしているのかもしれない、なんて。
ところで、彼の近況を言えば、誰かと付き合っているわけではないし、誰かのことが取り立てて好きだということもなかった。
恋愛に興味がないというわけではない。だからこそ彼はこの手紙で揺れている。
相手が誰であるかも大切であるけども、それはさて置き、付き合うことに興味があっても、ただそんな心持ちで付き合って上手くやっていけるのかどうか、と。
相手にとってそうすることが失礼かどうかということも考えてみた。
結局は、自分がちゃんと相手と向き合えれば、たとえ最初から気があるわけではなくともいい──つまり、相手がちゃんと向き合える相手なのかどうかが大切なのだと彼は思った。
そうこう考えているうちにチャイムが鳴る。そうしてまた一つ放課後へと近づいていくのだった。

放課後。
見た目上彼にとってはここまで下駄箱に一通のラブレターが入っていたことを除いて普段とは何も変わらない時間が進んでいた。
もっとも内心は気の休まることなどなかったのだけれども。
取り立てて用があったわけでもなく、彼は掃除の終了と共に自分の椅子に座ってぼんやりと赤く染まりつつある空を眺めていた。
最初のうちはまだ教室にいた友達と話してもいたが、それに彼が飽いたのか友達が飽いたのか、いつの間にか彼は誰と話すでもなく一人になっていた。
教室にちらほらと残って話していたクラスメイトも次第に帰ってゆく。それに連れて空も次第に赤くなっていった。
雲が赤く赤く染まる頃、教室には彼を残して誰もいなくなっていた。
彼は何をするでもなくぼんやりと空の様子を眺めていた。
状況を見てまだかまだかと待ち構えることもなく、宛(さなが)らここで一晩を明かしてしまうのかという具合だった。
依然として彼がこれからやってくるであろう人のことを考えていたことは言うに及ばず、時折流れる雲を何かに例えたりして過ごしていた。
何処かで何度目かの部活の掛け声が響いた時、教室の扉がゆっくりと開く音がして、彼は何となく振り返った。
そこには壁際から覗きこむようにして一人の女の子がいた。
彼女の名前は鵲(かささぎ)紗枝。ちょうど、彼の真後ろの席。
二人は普段なら席が近いこともあって何か困ったことがあれば気兼ねなく相談するし、他愛のない話もするような間柄だった。
でも、今は……。
「あっ……」
彼女はその華奢な身体からただそれだけを小さく零してその場に佇んでいた。
何処からか吹き込んだ風にその長い髪が微かに揺れているものの彼女自身は微動だにしていなかった。
「……入らない、の?」
恐る恐るという風に尋ねる。当然のことのように、彼も緊張していたのだった。
「入る、よ。うん……」
そう言ってまるで腫れものにでも触るかのようにおずおずと教室へ入ってくる。
そうして、やや顔を背けたまま自分の席──つまり、彼の後ろの席──にこぢんまりと座った。
普段の彼女からは見られないその姿に、皓平はやや頬が緩むも依然として緊張は断ちきれずにいた。
「えっと……、あのね」
「うん」
それは続きを待つよという印。それだけを言うのが今の彼には精いっぱいだった。
一方彼女は言ったきり俯いてしまっていてその顔の表情は窺えなかった。
恐らくは赤くなっているのだろうなと彼は思っていたが、それ以上の推測はしなかった。
それから長くて一分ほど経っただろうか。彼女は急に思い出したかのように顔を上げて言った。
「その」
ただ、その時ちょうどそれに反応した彼とものの見事に目があった。
数秒だけ。たったそれだけで十分だった。
彼女はみるみる紅潮し、再び顔を伏せてしまったのだった。
「……ごめん、なさい」
彼女は何とか小さくそう言う。
それでも誰もいないこの教室では十分だった。
「うん?」
「分かって、るんだけど。言うべきこと。言わなきゃ、いけないこと。でも……」
「うん。ちゃんと、待ってるよ」
彼にもその台詞はある意味で彼女にとって酷なのだと分かっていた。
それでも敢えて言う。
その言葉が言うべきことだから。言わなきゃいけないことだから。
しばらくして──とはいえ先ほどよりかは早く、彼女は再びゆっくりと顔を上げた。
未だ覚めよらぬのか上気したままで、目線だけ少しずらしていた。
「うん」
彼女は言って小さく頷く。そして、
「私、ずっと皓平くんのことが、好き、だったの」
ますますその頬を赤くして、今度はちゃんと彼の目を見てそう言う。
皓平はそれに対してただ微笑みながら柔らかく応えるだけ。
「うん」
それはただの照れ隠しだったのかもしれない。
それとも、そこで自分もそうだと言うのは嘘になるからだろうか。
「……だから、私と、付き合って欲しい、です」
少なくとも仲はいい。話していて楽しい。でも、それはまだ好きだというわけじゃない。
そう、まだ、というだけ。
彼女の方が少しだけ恋に落ちるのが早かっただけ。
皓平は改めて彼女の様子を見てみた。
既に言うべきことを言ってあとは答えを待つだけとなった彼女は、少しだけ俯いて、しかしそれでも彼から表情が窺えるくらいのところで、頬をまだ真っ赤に染めたまま固く目を閉じていた。その両手は机の上で軽く結ばれている。
沈黙が流れて幾許か、彼女の手にぎゅっと力がこもった気がした。
鵲さんなら──。
彼はほんの少しだけそう思案して、両手を前へと伸ばした。それは彼女から見えていない。
伸ばした手は机の上で結ばれた彼女の手へと伸びてゆく。両側から柔らかく包みこむようにして手に取る。
それが触れた時、彼女は一瞬ビクついて思わず顔を上げた。些か強張っているようだった。
「うん。いいよ」
包んだ手に少しだけ力を込めて言う。
それは彼女を勇気づけるためだろうか。それとも、彼自身のためだったのだろうか。
その言葉を聞いて、彼女の強張った表情は弾けるように綻んだ。
固く結んだ口元も力が抜けてへにゃっとしている。
「ありがとう。えっと、これからも、よろしくお願いします」
微笑みながらそう紡ぐ彼女の頬は、未だ朱色に染まったままだった。

陽も落ち辺りが薄暗くなる頃、とある幹線道路の脇を二人は歩いていた。
その距離は遠からず近からず、しかしながら少しずつ近づいているようにも見えた。
「皓平くん」
「ん? どうかした?」
「手、繋いでもいいかな」
言われ、彼は空いていた手を笑って彼女に差し伸べる。
「どうぞ」
彼女は肘より少し低いくらいの位置にあるそれに恐る恐る触れて、その柔らかい手でふんわりと握った。
彼もそれを得て、彼女の手を握り返す。
肌寒い中、それはほんのりと温かかった。
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