Apple りんご

Like a crimson apple...(真っ赤なりんごのように...)

うーんっ……
何か手で払い除けたくなるような感覚があって、私はまるで耳元を飛ぶ蚊を追い払うかのように無意識に宙を手で掻いた。それがつもりになっているのか本当に動かしたのかよく分からないまま薄ら目を開けると、そこにはあいつの顔があった。
「きゃっ」
瞬時、私は胸元のタオルケットを手繰り寄せて、慌てて顔を隠す。こうなるといつも眠気はすぐに吹っ飛んでしまっていた。
「もう、着替えるから早く出てって」
「は〜い」
布越しに聞こえるあいつの声が、足音と共に遠ざかって、部屋にドアの閉まる音が響いた。
恐る恐るタオルケットを退けて部屋を見回すと、もうそこにはあいつの姿はなかった。
「……はぁ」
ため息一つ吐いて、ベッドから起き上がる。ハンガーから制服を取りながら、もう一つため息を吐く。
私と彼は幼馴染で、同い年で、親だって顔馴染みの仲だった。昔から付き合いがあって、いつの間にか朝起きられない私を起こしに来るのが彼の日課になっていた。
だけど私ももう中学生なんだ。そんなことされなくたって起きようと思えば一人で起きられる。
それに、年頃の女の子の寝込みにやってくるあいつもあいつだけど、うちの親にしてもこの部屋へあいつが来ることを知っていながらほいほい家に入れるばかりか、時々朝ご飯を一緒に食べたりしている。
私ももう中学生なんだよ? 年頃の女の子の部屋に簡単に男の子を入れていいの? なんて。
お母さんに対してだって”部屋には勝手に入らないで”ってちゃんと言うのに、そのお母さんに”私も年頃の女の子なんだよ?”なんて言ってあいつのことを話すのは、何故だか恥ずかしくてできなかった。
上手く言えないけど、あいつはずっと私の幼馴染で。だけど気付くと男の子で……。
そんなことを考えながら着替え終わって部屋を出ると、あいつは決まって一言言うために階段のところで待っている。
「おはよう」
「……おはよう」
少しだけムスッとしながらそう応えてあげる。不本意だけど、あいつは毎朝(いつも)こうだった。

既に朝ご飯を済ませていた彼が脇で本を読んでいる間、私はそそくさとお母さんの用意してくれた朝食を食べた。そうして手にスポーツバッグを持って、予定通りの時間に家を出る。
自転車を表に出して、彼と並んで自転車で学校へ向かう。手を振るお母さんに見送られながら、こんな感じで学校へ行くのもいつも通り。
お母さんが家へと戻ったことを確認して、私は開口一番あいつに抗議した。
「この前も言ったけど、もう中学生なんだし、毎日毎日起こしに来るの、止めて欲しいの」
「うん?」
「あと、寝起き見られるのも嫌なの! 髪だってぼさぼさだし……」
「一人で起きられるようになったらね。そんなことより昨日のゲーム見た?」
「見てたけど。そういう話じゃなくて!」
野球の話だ。お父さんとよく盛り上がっている。私も一緒に見ていることがあるから、翌日はよく彼と昨日の試合(ゲーム)のことを話すけど、今はそういう話じゃない。さらりと流さないで欲しい。
「もう朝起こしに来なくていいって言ってるの!」
「そう言うなら、頑張って俺が行くまでに起きればいいんじゃない?」
苦笑いしながらそう言う。これは絶対に起きられないと思っている顔だ。
「意地でも起きる!」
「無理だと思うけどね」
「起きる! 起きてやるから!」
「で、昨日の荒本の守備良かったよね。あの捕球からの送球は見事!」
「もうこの野球バカ! 起きて待ち構えてやるんだからね!」

なんてことを言ったものの、思い返せば最近彼に頼りっぱなしで、今は目覚まし時計を掛け忘れても無事に起きられているという有様だった。昔はちゃんと目覚ましを使って起きていたはずなんだけどな。
ちなみに目覚ましは彼が私の部屋に来るより少し早くに鳴る。……あれ?
これは最近自力で起きていないってこと……?
あんな風に大見得を切ったのに、またあいつに起こしてもらうハメになるなんて冗談じゃない。でも、普段からこんな状況では、すぐに一人で起きられるなんてとても思えなかった。
しかし、私には秘策があるのだ。

帰宅後、夕ご飯を終えてから、私はさり気なくお願いしてみることにした。
「ねえ。明日ちょっと朝にテスト勉強したいから、いつもより早めに起こして欲しいの」
最終手段! お母さんに起こしてもらう!  これならあいつが来るまでに起きられるはずだ!
「朝からテスト勉強するなんて珍しいね」
「えっ、えっと、一夜漬けならぬ一朝漬け? 明日は小テストがいっぱいあって大変なの」
なんて真っ赤な嘘だ。即席にしてはよくやった、私!
「そう。で、何時くらいに起こせばいいの?」
「えっとね──」
いつもちゃんと一夜漬けしているから、朝に勉強なんてすることない。
全てはあいつが来るより先に起きるため!

そして翌朝。
「どうして今日の朝起こしてくれなかったの?」
今朝は家でゆっくりとしているお父さんと昨日の試合を熱く語る彼を尻目に、私は隣に座るお母さんにこっそり抗議していた。
「”昨日の夜勉強したから今日はいい〜”って言ってたじゃない」
なんて、私の声真似をしながらお母さんは言う。覚えてない。確かに昨日夜に勉強していたけど。
「本当に私、そんなこと言ったの?」
「何、せっかく起こしてあげたのにもう忘れたの?」
そう言われると返す言葉がなかった。起こされたのを忘れるくらい寝ていたのだろうか。寝ぼけながらも言い訳を作るなんて、普段の勉強の習慣が仇になったらしい。
「ごめんなさい……」
いつもの目覚まし時計だって、気づけばいつ鳴っていたのか分からないことが多かった気がする。気のせいだと思いたい。でも事実今日の朝起こされたことには気がついていなかったのだ。
「さ、時間だし、学校行くぞ?」
気づくと、私のスポーツバッグを片手に、彼がリビングの入り口で待っていた。
「う、うん」
彼を追って部屋を出る。
「やっぱり、お前は俺がいないと駄目だな」
「むう……」
ふくれっ面で応えてやる。これが何か大きなトラブルにでも巻き込まれた後の台詞なら素敵なのだろうけど、ただ起きられなかったことを責められているだけなのが何とも癪だったのだ。

「荒本の捕球からの、井橋の送球! あの二人は本当にいいコンビだね!」
風を切って隣を走るこいつは、見ての通りただの野球バカだし。私も仕方ないから話に付き合ってあげているのだ。別に野球が好きなわけじゃない。夕ご飯のときにいつもテレビがついているだけだ。
「俺も野球選手になって、あんなプレイがしたいんだよね」
「もう何度も聞いたよ、それ」
「夢は口に出してこそだからね。まずは甲子園!」
言って、彼は器用にも自転車を運転しながら、バットもなしに片手だけで予告ホームランの真似をしていた。夢、か。
「そういや、明日明後日は家族旅行でいないから、頑張って起きてね」
「ええっ!?」
「ちょっ、大丈夫か!?」
驚きのあまり狂ったハンドル操作を何とか立て直して、
「だ、大丈夫! 大丈夫!」
「何もそんなに驚かなくても……」
ああびっくりした。彼の言う明日明後日というと土日だ。土曜日には朝から部活の練習があるけど、あいついないのか。さすがにお母さんに昨日と同じ理由で起こしてもらうわけにもいかないし、彼が来ないから起こして欲しいだなんてとても頼めなかった。
これはつまり……。

「──ちょっと、いい加減に起きないと間に合わないよ」
「あとちょっと……」
「もう。またそう言って。お母さんは知らないからね」

その日、部活に盛大に遅刻した私がいた。昨日の夜、何度も何度も朝起きないと駄目だって念じたはずなのにこのザマだ。認めたくなんてないけど、認めるしかなかった。
私はあいつがいないと起きられない。でもさすがにこんなにも酷いとは思わなかった。
とにかくテキパキと準備を済まして、まだ涼しい朝を一人自転車に飛び乗り学校へ向かう。今からだとどうしても時間には間に合わないので、下手に急がずいつもと同じ速さで行くことにした。
思えばこの道を一人で行くのも、随分と久しぶりな気がした。いつもあいつが隣にいて、一緒に学校まで自転車で駆けていた。そんな道をこうして一人で走るのは何処か心許ないと感じるのは気のせいだろうか。

その日の夜、私が見た夢は幼い頃の記憶だった。
 まだ年端もいかない頃にした幼いからこその将来の約束。今となってはあんな約束も冗談のように思えるのに、何故か驚くほど鮮明に蘇る。
あいつはそこでもバットを持っていて。今でも実直にそれを振り続けている。
頑張っている彼のそばで、私はあれからどんなことができたかな……。

日曜日の朝はいつもより随分と遅い時間に自然と目が覚めた。
ただ、目を開けた瞬間あいつが見えたような気がして、思わずタオルケットをたくし上げた。あんな夢を見たせいだろうか。それだけですっかり目が覚めてしまった。
タオルケットを元の位置に戻すと、いつもならそこに見えるはずのあいつの顔が自然と浮かんだ。それは、野球のことを語るときとよく似た満面の笑みで。その笑顔に直視(み)られるのがどうしても恥ずかしかった。
もちろん誰にだって寝顔なんて見られるのは恥ずかしいけど、あいつに見られるのはもっと恥ずかしかった。幼い頃は何度も一緒に寝たことだってあるのに、今になってこんなに恥ずかしいと思うなんて。それも毎日。きっとタオルケットの中の私はいつも真っ赤になっているんだろう。
でもあいつはどう転んだってただの幼馴染なんだ。こんなに気になるのも、今は思春期になったからって下手に意識しているだけに違いない。
きっとそう。恥ずかしいことにそれ以外の理由なんてないんだから。

翌朝。
彼は、いつも通りに来て。三日ぶりに見たあいつは、今日も眩しくて。ただでさえ黒い肌が更に黒く焼けていて、一体何処へ行ってきたのかと眠いながらも気になった。
私は、いつも以上に驚いて。いつもならたくし上げるだけのタオルケットは、頭から丸く被って。ただでさえ赤い顔が更に赤いのも透けしまって、バレてしまうんじゃないかと馬鹿なことも気にしていた。
あんな夢を見たせいだ。
あれは昔の冗談のような約束で、こいつに限って私が……、私がずっと一緒にいたいだなんて思うわけがないじゃない!

どれだけ強く否定(おも)っても、夢と胸の高鳴りだけは正直で。いつから始まったのかも分からないまま、素直になれず、今日もまた朝を迎える。
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