あの頃 〜Itazura〜

まだ愛とかそういうものでなくて、純粋に好きだったあの頃。
小学校に入りたてで、大いに自由があったあの頃。
見渡す限りが皆新しい発見の連続で、私の周りには広大な白い世界が広がっていた。
未知で、透き通るような美しい世界。
そんな世界には一体何があるんだろうと、私は子どもながらに思いを馳せていた。
私はそんな子ども時代を、顧みてみようと思う。
小学一年生の夏休み。
毎日早朝から近所の広場へ出向いて、小学生一同ラヂオ体操に励んでいた夏。
日に日に伸びてゆく朝顔を眺め、観察しながらその成長ぶりに疑問を感じずには入られなかった夏。
とても長いようで、過ぎ去ってみればとても短かったあの夏。
私たち──私、徳村 加恵と久木 信彦、そしてその家族は、そんなこの年も例年通り夏の旅行へ行くことになった。
何故私の家族が信彦の家族と一緒に旅行へ行くのかというと、双方の父親が古くからの仲で、私たちの親が結婚してからというもの、家族ぐるみの付き合いをしているかららしい。
以前にお父さんの小学生時代の写真を見せてもらったとき、そこには信彦のお父さんも写っていた。
と、いえども顔は一致しなかったから、名前しか確かめられなかったけれども。
ともかくそういう経緯で、私たちは毎年旅行へ行っているわけだった。
夏のある夕方、蝉の鳴く声と扇風機の回る音が交差するリビングで、わたしは大いに期待を寄せてお父さんに尋ねた。
「今年は何処へ行くの?」
「海、かな」
「去年は山だったもんね」
「ああ。だから今年は海にしようかなと思って」
「海かぁ……」
海といえば、海水浴だろう。
砂浜で砂のお城を作ったり、海の家でかき氷を食べたり、海で思いっきり泳いだり。
でも、のぶちゃん──信彦のことを当時はそう呼んでいた──は泳げるようになったのだろうか。
二年前に行ったときは、彼のお父さんと懸命に練習していたみたいだったけども。
「一泊二日で、Y県のS海岸に行こうと思うんだけど、怜くんも来るって」
とお父さんは言っていたけれど、わたしの中は彼のことでいっぱいだった。
お父さんの言う、怜くんとは父方の従兄妹に当たる人で、父の姉の怜子さんの子だ。
しかしながら、私たちからすれば良きお兄さんで、この年二十歳になったばかりの新成人だ。
今は三十三になって、妻子もいる。
たまにふらっと遊びに来ては、いつの間にか帰ってしまう神出鬼没の人だ。
そんな彼の子どもがまた可愛いのなんのって。
……ともかく、この時は海の似合う好青年だった。
私が言うのも変だけども。
一泊二日のY県M海岸、海へ行く当日。
わたしとのぶちゃんは、のぶちゃんの家族の車の後部座席に右から順に乗っていた。
一方運転席にはのぶちゃんのお父さん、助手席にはお母さんが乗っていた。
ちなみに怜くんは、わたしのうちの車に乗っている。
帰りは、わたしたちが私の家族の車へ乗ることになっている。
これもいつもと同じ。
たぶんその方が話し相手もいていいだろうということみたいだけど。
でも実際は……。
まあ帰りになれば分かると思うので、とりあえず今は置いておく。
それよりも、車は私の家を出発して国道へ抜け、高速道路に入った。
ちょうど盆休みなので、外には同じような目的の車がたくさん走っていた。
ナンバープレートを見れば、遠くの県から来ている人も多くいるとお父さんが言っていた。
多分盆休みを利用して帰る人なんだろうとは想像できたが、その頃のわたしにはまだ読めなかった。
高速の上を忙しなさそうに行き来する車は、まるで夏休みの過ぎ行く速さを物語っているかのようだった。
朝8時ごろに出発した私たちは、十時くらいにはもう目的地に着いていた。
しかしながら、旅館にはまだチェックインすることができなかったので、先に海へ行くことになった。
海には彼処に人がいて、いかにも夏を思わせる風景だった。
わたしたちは着替えと、荷物を置いておく海の家を探すため、浜辺を散策していた。
海の家には、ビニールボートやビーチボールなどが沢山おいてあった。
その前を通りすぎると、それらの磯の臭いが速く泳ぎたいという欲を一層掻き立てた。
落ちつく海の家もなんとか決まり、着替え終わったわたしたちは海へと繰り出した。
わたしは当時スイミングスクールへ通っていたため、水泳は得意だったので自由気侭に海を泳いでいた。
しかしながら、一方ののぶちゃんは未だそれほど泳げずにいるみたいだった。
二年前と同じように海へ来たときも、のぶちゃんはひとしきり泳ぐ練習ばかりを懸命にしていた。
どうやら今年も同じらしい。
怜くんに泳ぎ方を教えてもらいながら、彼が泳ぐ姿を見様見真似で泳ごうとしている。
わたしはできればのぶちゃんと一緒に泳ぎたいのだけども、あの通りだからそうはいかなかった。
でも進歩は見られる。
一昨年は浮くことさえままならなかったのに、今年は浮くどころか進んでいるようだった。
のぶちゃんも頑張っているんだなと、遠くからその姿を眺めていた。
お昼時を少し過ぎて一時頃。
少し、泳ぐのに夢中になりすぎていたのかもしれない。
海の家にはある程度人はいたものの、しばらく前の方がもっと混んでいたかのように思う。
私たちは7人で掛けられるところを探し、そこへ座った。
すると海の家で働くウエイターがすぐさま駆け寄り、私たちに注文を尋ねるのかと思いきや、怜くんと親しげに話し始めた。
聞くところによると、どうやら中学生のときの同級生だったらしい。
会話に一区切りついたところで、わたしとのぶちゃんはお子様ランチ── 子どもの特権とも言うべき、憧れの華。つまり定番か──を、わたしとのぶちゃんの双両親と怜くんは揃いも揃って冷やし中華を頼んだ。
すると怜くんの同級生のウエイターさんが、
「すいません。今、最後の一つを出したところでして」
と間も開けずに切り返してきたため、五人は肩をすくめて溜息をついていた。
四時過ぎ。
わたしたちは旅館へとチェックインした。
私の両親と怜くんは泳ぎ疲れたのもあるだろうが、何よりも冷やし中華が食べられなかったのが残念だったらしく、部屋の中でぐったりとしていた。
一方のわたしとのぶちゃんは、お互いの部屋を行き来してやたらと騒いでいた。
まあこうして普段と環境の違う状況にいると、この年頃ならば騒ぎたくなるか 若しくはやたら大人しくなるのが筋だろう。
しかし言うまでもなく、わたしたちは親に注意を受けることになるのだった。
それから注意されてしゅんとしていたわたしたち二人は致し方なく、持ってきていたトランプを取り出して怜くんを半ば無理矢理誘い、三人で神経衰弱やらババ抜きなんかをやっていた。
夕食を食べ終わって、一息ついた頃。
両親は布団に入りながら、テレビを眺めていた。
怜くんはトランプに誘ったのが堪えたのか、すっかり寝入っていた。
そんな中、わたしは一人 窓の外の海を眺めていた。
日が沈む海はすっかり夕暮れ色に染まり、さっきの人だかりはまるで嘘のように海は静かに波を奏でていた。
ちらほらと泳いでいる人も見えるが、大半はわたしたちのように旅館に泊まったり、もしくは家に帰ったのだろう。
夕日に映える海は、青色からすっかり赤茶色に衣替えしたかのようで、なんだかすっきりした印象を与えていた。
わたしはそんな海をしばらくぼうっと眺めていた。
気付くと、いつの間にかテレビは消え、両親も布団に入っていた。
もちろん照明は落ち、外は暗い。
海は名残惜しそうにうっすらと夕焼け色に染まっていた。
わたしもそろそろ寝ようと、そう思い布団の中へ入った。
それから幾らか経って、突然部屋のドアが開く音がしたので見てみると、そこにはのぶちゃんが俯き加減に立っていた。
「どうしたの?」
「なんだか眠れなくて……」
わたしはうとうとしていて、ちょうどもう少しで寝るだろうと思われる頃だったけれども。
「じゃあ一緒に寝る?」
「うん……」
わたしはのぶちゃんの同意を受け、片側に寄って彼の入れる場所を空けた。
そしてのぶちゃんはその空いた場所に入った。
「今日泳ぐの、頑張ってたね」
「うん。今日は怜くんがいてくれたから、大分できるようになったんだよ」
「怜くん、泳ぐの上手いからね」
「ぼくも怜くんみたいに泳げるかな?」
「のぶちゃんなら絶対できるよ。わたし、応援してるから」
「うん。ぼく、かえちゃんと一緒に泳ぐのが夢なんだ」
「わたしものぶちゃんと泳ぎたいな」
「待ってて。絶対泳げるようになってみせるから」
若き日の誓いを、信彦は覚えているのだろうか。
それが果たせていることを、彼は知っているのだろうか。
のぶちゃんが覚えてなくても、私はちゃんと見たよ。
星を掴んだ君を。
次の日の朝。
目が覚めると、お父さんとお母さんが先に起きていた。
隣ではのぶちゃんがこっちを向いて布団の中で丸くなっている。
頭は布団から見えておらず、両親が気付いたかどうかは定かではない。
一方、怜くんの布団は彼の上から完全に移動しており、いつの間にか蹴り飛ばされてしまったらしい。
昨晩は比較的涼しい夜だったのに、そんなことはお構いなしだ。
わたしは、隣で丸くなって微かな寝息を立てているのぶちゃんを軽く揺すってみる。
すると彼は何とも言えない唸り声を上げ、それから眠た目を擦りながらわたしのほうを向いて、朝の挨拶をした。
「ん……。おはよう、かえちゃん」
「おはよう、のぶちゃん。それより、ここに来るときのぶちゃんのお父さんやお母さんに何か言ってきた?」
「えっ、何も言わなかったけど……。お父さんもお母さんも寝てたから……」
「じゃあ早く戻った方がいいよ。心配してるだろうから」
「うん……」
彼はそう言って立ち上がり、おぼつかない足取りで部屋を出ていった。
「あれ、信彦君いたの?」
「うん。なんだか眠れなかったらしくて」
「そうだったの?今まで気付かなかったわ」
やはり、少なくともお母さんは気付いていなかったらしい。
無理もないとは思うけれども。
朝食も終わり、部屋に戻ったわたしたちは帰る準備を済ませた。
別にまだ泳いでいてもいいのだが、昨日の困憊と、蒸せるような熱気に満ちた車内と、道路の混雑を考慮してこの時間に帰ることにしたのだろう。
帰りはわたしの家族と のぶちゃんが、わたしの家の車に乗り、のぶちゃんのお父さんとお母さん そして怜くんが、のぶちゃんの家の車に乗ることになった。
怜くんがのぶちゃんの家のほうへ乗るのは、日頃のご愛好を感謝して……じゃなくて、日頃のぶちゃんとは仲良くやっているのに、その両親とは話す機会があまりないからだろう。
ともかく、四人を乗せ出発した車内にて。
「部屋に戻ったあと、どうなったの?」
「お父さんとお母さんは"そうだろうと思ってた"って言ってたよ」
「あ、そう……」
わたしの心配は無駄だったらしい。
「それより、ぼくの入ってた布団、戻ったら怜くんの布団みたいになってたよ」
わたしはそれを聞いて色んな意味でほっとした。
なるほど、やはり無駄でなかったということか。
つまり探した形跡だろう。
のぶちゃんを起こしておいて正解だった。
あのまま放っておけば、のぶちゃんの両親が飛び込んできただろうから。
「それで、昨日は眠れたの?」
どうやらわたしのほうが先に寝てしまったようで、その辺りはよくわからないから。
「……」
「のぶちゃん?」
返事がないので、隣にいたのぶちゃんを覗き込むと、彼は寝入っていた。
「……」
疲れたのは分かる。
多分わたしも帰れば即寝るだろうから。
でも。
わたしは寝てしまったのぶちゃんが、なんとなく憎たらしく思えた。
そんなとき、わたしにふとあることが過ぎった。
のぶちゃんに悪戯をしてやろう、と。
わたしはのぶちゃんの顔を再び覗きこんだ。
今日の朝と同じように、小さな寝息を立てていた。
あのときの信彦の寝顔は、今となってもついさっきのように思い出せる。
まだ無邪気で可愛くて、どう足掻いても人を憎めそうにないような幸せそうな顔。
疲れきって満たされて、自分の中に収まるだけの楽しみを詰めこんだような顔。
あるだけのパワーを使い果たして、十分に満足のいくだけ遊びきったような顔。
わたしはそんなのぶちゃんの唇に、軽くキスをした。
のぶちゃんはまた何とも言えない唸り声を上げた。
わたしはそれにびくっとする。
しかし彼は再び向こう側を向いて寝てしまった。
多分、恐らく、いやきっと、のぶちゃんのファーストキスだと思う。
わたしもそうだったけど。
わたしはなんだかのぶちゃんの知らないところでキスしたってことが嬉しくて、思わず騒いでしまった。
するとお父さんが運転席から、
「どうかしたか?」
と、声をかけて来た。
お父さんやお母さんがいたことをすっかり忘れていたわたしは、慌ててそれを誤魔化した。
「えっ、いや、なんにもないよ」
あたふためくわたし。
「そうか?ならいいけど」
そう言って、お父さんはまた運転に集中した。
わたしはほっと胸をなでおろした。
それからしばらくして、わたしはもう一度のぶちゃんの顔を覗きこんでみた。
彼はいかにも幸せそうな顔をしていた。
わたしはそれがとても嬉しかった。
なぜなら、わたしものぶちゃんと同じように幸せだと感じていたから。
それは一夏の思い出。
淡くも切なくもないけれど、私にとって大切なアルバムの一枚だ。
もしかしたら信彦はそんなことなんて少しも気に掛けていないかもしれないけれど、私の胸の中にあればそれでいい。
過去は誰かが覚えている限り、決してなくなったりはしないのだから。
 
あとがき〜短編のみの読者の方へ〜
企画小説としては初の取り組みです。
でもこういう感じもいいかもしれません。
当サイト「A blank diary 〜交差する想い〜」の番外編として書かせていただきましたが、もちろんこれのみでも話は成立します。
本編の主人公は、この物語の主人公である加恵ではありませんが、よければどうぞ。

あとがき〜本編の読者の方へ〜
あとがき通り、やはり書いてしまいました。
何と言っても一番書いてて楽しいですから。
さてさて本編にもうっすらとこの回想の部分が載っているのですが、とりあえずこの短編を読んだからと言って大したネタバレにもなりませんのでご安心を。
より一層詳しく書いただけって感じです。
それでも曖昧な部分は多いけど……。
登場人物
あとがき
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