◆「京将棋縁起帖」
★はじめに
 京将棋の生い立ちを記録しておく事を主な目的として当コーナーを作りました。時間が経てば関係者自身の記憶も曖昧に成ってしまい、不正確となる怖れがあるので、早く記しておくに越したことはないでしょう。これを「京将棋縁起帖」と名づけることにします。執筆は善勝寺 有常です。

 現在、日本の将棋(9x9の現行将棋)の成立過程については不明な点が多々あります。それは、古代インドで発明された原型が日本に伝搬したルート及び伝搬時の原将棋の内容、そして原将棋から種々の日本将棋が生み出された時期と経緯などです。こうなった原因は将棋について詳しく記載した文献等が残っていない事に起因していると思われます。例えば、13世紀頃成立の「二中歴」(「掌中歴」と「懐中歴」をあわせたのでこの名称があり、第一級の資料とされる)には、「将棋」と「大将棋」が記載されているが、このうち「将棋」は盤サイズと駒の初期配置が明確には記載されていないという有様です。

 江戸時代の林元美(囲碁家の林家11世)の著書「爛何堂棋話」にある話ですが、八代将軍吉宗より碁と将棋の歴史・伝来について下問があり(享保12年、1727年)、囲碁方(五世本因坊道知)と将棋方(大橋分家四世大橋宗与)がその委細を書き付け提出する事になりました。将棋についてのその解答内容はかなり苦しく「・・本朝へ伝来は、何れの時より伝来し候や、分明に相知り申さず候。・・・」ということで、将棋の本家である大橋家とその周辺でも将棋の歴史・伝来は全く判っていなかったようです。また、「本朝の将棋と唐の将棋は相違申し候と存じ奉り候。」とあり、文書の冒頭で将棋の起こりは中国とした記述との矛盾点もあり、「・・・将棋の方は、なかなか埒明く申すまじく候・・」(老中大久保佐渡守)と一同の困惑がありありです。
  
 では、次に何故、将棋の詳細な記録が残され無かったのかについて考えてみます。それは、古代から中世にかけては将棋や囲碁が遊戯の一種に過ぎないと見なされていたからではないでしょうか。清少納言の枕草子に「遊びわざは 小弓。碁。さまあしけれど、鞠もをかし。」(204段)という一段があります。やはり、碁や将棋はあくまで閑つぶしの遊戯だったのでしょう。寺社などで僧侶達への規則集に大小将棋を禁止する旨記載がある文書が残されている事からも推察できます。また、公家や僧侶の日記に記載がある様に将棋には懸物が出される、つまり賭将棋が当時の常識であり、将棋も博打の一種と見なされていた様です。このような状況では、将棋に関する公式な記録は残らないのが当然と言えます。勅撰集が数多く残っている和歌などとは比較にならないほど地位の低い分野であったはずです。その将棋や碁がようやく技芸の一分野として社会的に認知 されるのは、初代本因坊算砂や初代大橋宗桂が幕府から俸禄を受けるようになる江戸時代まで待たねばならないのでした。

 もっとも文献は存在したが、散逸したという可能性が在ります。角田文衛著の「平安の春」には、「・・・都を焼土と化した大乱が公卿や社寺に架蔵されていた厖大な量に上る文書、記録、典籍を灰燼に帰させたのは、惜しみてあまりあることであった。」とあります。これは15世紀後半応仁・文明などの大乱で貴重な文書類が散逸した事を角田氏が大いに嘆いている箇所です。逸書の例として「日本後紀 四十巻」、「新国史 四十巻」、「類聚国史 二百巻」など確かに厖大です。それは「眼を覆うほどの惨劇であった」(同書)そうですが、この中に将棋関連の貴重な文献が存在したかもしれません。「哀惜の情に胸が疼く」(同書)気持ちは良く判ります。

 ・・・以下継続予定です。いつ完了できるか未定な点はご寛容を。 
★第1話 奇妙な夢                
★第2話 京将棋とサッカー  
★第3話 「銅将」駒の謎  
★第4話 「京」駒について  
★第5話 京将棋成立の時期と作者  
★おわりに  
★参考文献
[1]「将棋の駒はなぜ40枚か」 増川宏一 集英社新書
[2]「欄何堂棋話」 林元美 林裕校注  平凡社東洋文庫
[3]「枕草子」 清少納言 石田穣二訳注  角川文庫
[4]「平安の春」 角田文衛 講談社学術文庫  
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