高山  2002.6.2
 コースタイム : 自宅 発(6:35)〜久安寺(7:00)〜下止々呂美(7:30)〜高山口(7:50)〜高山(8:15)〜高山マリヤの墓(8:20)〜高山高札場跡(8:35)〜箕面駅前(9:45)〜自宅 着(10:05)
 久安寺亀岡道、寛文十年の道標。道標の文面は梵字と「南無阿弥陀佛」を中央にして右側に「右かめ山道」、左側に「左久安寺道」とあり、寛文十年(1670)の年号が刻まれています。この道標は、年号が刻まれたものとしては、大阪府下で最も古い部類に含まれます。街道は山越えをして箕面の下止々呂美へと至ります。しかし、この山越えが難所であったため、明治時代になってから、現在の国道のように余野川沿いに道が開かれて、山道は利用されなくなりました。現在は山のふもとで行き止まりになっており、山道を通ることはできません。
   
 高山口
   
 高山マリヤの墓。墓碑は4基からなり、なぜか一基が離れている。墓碑には江戸時代中期の元文・延享・寛延(1730〜51)の年号が刻まれており、2組の夫婦の墓と伝えられている。高山はキリシタン大名として名を馳せた高山右近の居城のあともあり、キリシタンとは関係の深い土地柄である。「マリヤ」の墓の所伝は不明であるが、明治時代の古老によると江戸幕府のキリシタン禁教後、キリスト教徒はほとんど姿を消したが、村には2軒が残り、やがて転宗したといわれている。所伝が正しければ、この2軒の夫婦が、墓碑2組の夫婦とも考えられ、江戸時代、高山でのキリシタンは寛延年間頃で後を絶ったことになる。  
   
 住吉神社
 
   
 高山の棚田
   
 高山高札場跡。中世末期以後、領主が法度(法律)・控書などを書き、一般の民衆に法令を徹底させる為に掲げた板札を高札といい、その掲示場所を高札場と呼び、この地域は「札場」と呼ばれていた。
 高札は明治3年(1870)に廃止になり、高札場も姿を消したが、高山高札場は現在に伝わる。
    定
一 切支丹宗門之儀ハ
  是迄御禁制之通
  固く可相守事
一 邪宗門之儀ハ固く
  禁止候事
 慶応四年三月 太政官
  右之通被
  仰出候間堅可相守者也
            日向
   
 高山の道標
   
 箕面川ダム
   
 巡礼街道 新稲の道標

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