ポンポン山  2002.5.3
 コースタイム : 自宅 発(9:00)〜萱野三平旧邸(9:30)〜椿の本陣(10:30)〜継体天皇陵(11:00)〜神峯山寺(13:00)〜ポンポン山 頂上(15:00)〜桜井駅跡(17:45)〜椿の本陣(18:50)〜自宅 着(19:45)
 牧落の旧札場と道標。ここは箕面・大坂道と西国街道の交わる四ツ辻にあたるので、行路の目安となる道標二基が今も建っており、次のような道しるべが刻まれています。

大  大坂       四り半
          天神      道
    はっとり     二り

小  みのをみち

   
 萱野三平旧邸長屋門。元禄十四年(1701)三月十四日、浅野内匠頭が江戸城松の廊下で、吉良義央に切りつけた刃傷事件の時、鉄砲州の赤穂藩上屋敷にいた三平は、事件を赤穂に知らせる使者として、早駕籠で昼夜の区別なく早駆けしました。赤穂城の開城後、萱野へ帰った三平は、大石内蔵助を中心とする仇討の一党に名を連ねていましたが、江戸へ下ることを願った三平に対し父重利は、三平を浅野家に推挙した大嶋家へ迷惑が及ぶことを思慮して、これを許しませんでした。内匠頭への忠義と、父への孝行の板ばさみになり苦悩した三平は、元禄十五年(1702)一月十四日、自宅長屋門の一室で自刃し、二十七歳の生涯を閉じました。
   
 勝尾寺表参道と大鳥居。勝尾寺へ向かう参道は幾筋もありますが、西国街道に面した、新家の大鳥居を基点として北へ向かう三十六町(約4km)の道が表参道です。参道沿いには、寺への距離を示す町石が残されており、宝治元年(1247年)に建てられた下乗石から七町石までの八基は、最古の町石として国の史跡指定を受けています。現存する石の大鳥居は寛文六年(1666年)に建てられたものですが、勝尾寺文書には、鎌倉時代の寛元三年(1245年)に木の鳥居が建てられたことが記録されています。
   
 郡山宿本陣(椿の本陣)。元禄十二年(1699年)五月十四日、浅野長矩一行、参勤のため東上、三平随行し、十六日、郡山本陣に一泊。
   
 太田茶臼山古墳(継体天皇陵)。茨木市にあるこの古墳と、ここから約1.6km東にある高槻市の今城塚古墳との間で、本当の継体天皇陵がどちらであるかという論争があります。この古墳は宮内庁によると、第26代の継体天皇の御陵であるとされています。「継体天皇」は、第25代武烈天皇に後継者がいなかったために、越前(福井県)から迎えられ、西暦507年に樟葉宮(枚方市付近)で即位され、その没年は、『日本書記』によると西暦531年頃です。天皇の没年が6世紀、古墳の築造時期が5世紀であることなどから、この太田茶臼山古墳が、本当の継体天皇御陵であるか否かの論議が繰り返されています。
   
 
   
 神峯山寺。毘沙門天を本尊とし、679年役の行者小角が開山。宝亀年間(770年頃)開成皇子が創建。境内には十三層の光仁天皇塔や、開成皇子理髪塔・開山堂。また、本堂の阿弥陀如来坐像と聖観音立像2体は国の重要文化財に指定されています。また、紅葉の名所としても知られています。
   
 本山寺。神峯山寺と同じく役の行者が開山。戦国時代には、松永久秀が所領を寄進したり、三好長慶や高山父子らが寺領の安堵状を出しています。また、江戸時代には、高槻城主永井氏や皇室などの崇敬を受け、宝永年間(1705年頃)に5代将軍綱吉の生母桂昌院が大改修を加えました。本堂の聖観音立像と毘沙門天立像は国の重要文化財に、高山右近らの書状を含む本山寺文書11通2巻が市の有形文化財に、それぞれ指定されています。
   
   
 ポンポン山頂上。この山は正しくは加茂勢山といいますが、標高679メートルの頂上に近づくにつれて足音がポンポンとひびくことから通称ポンポン山と呼ばれています。京都市の西端にあたりますがすぐ東の地域は善峯寺・三鈷寺・光明寺などの古刹寺が多く、平安中期以来、仏教の地としても重要な位置を占めています。
   
   
 善峯寺。元和七年(1621)再建の多宝塔は、現存最古のもので、重要文化財に指定されています。また、多宝塔の前にある樹齢六百年の五葉松は「遊龍の松」の名で呼ばれ、国の天然記念物に指定されています。
 
   
 桜井駅跡。ここは、楠木正成の父子決別の地。延元元年(1336)、西国から京に入ろうとする足利尊氏の軍を迎え討つために兵庫湊川へ出陣する正成が、ここで長子正行に御下賜の小刀を与えて遺訓をたれ、河内へ帰らせたと伝えられています。

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