当時私は29歳。父は60歳。 私は既に事業を開業し、自宅の片隅で仕事をしていた。 ある日のこと、父の様子が少しおかしい。 「あかん、ボケてきたなぁ」 もちろん、いつもそう言うわけではない。ときどき。 そのときは、まだ父の本当の病気に気付いていなかった。 父の職業はカメラマン。 と言ってもカタログやチラシの商品を撮影する 『商業写真』のカメラマンであった。 お酒は家で週一回の晩酌程度。 タバコも吸わなければ、ギャンブルもしない。 まさに『真面目』という言葉が似合う人柄であった。 それから2年。 普段の会話は普通であるが、 母の頼み事を忘れることが増えてきた。 母は毎日パートに出ていたので、父が家のことを少しばかりしていた。 自分でも気付き出したのか、『メモ』をとるようになった。 さらに2年、私が33歳のときである。 父はまだ現役カメラマンであった。 ある日のこと、仕事に出ていた父が、早々に帰ってきた。 私が 「どうしたの?」 と聞くと、 「いや、何でもない」 そっけない言葉が返ってきた。 しばらくすると、取引先から電話がかかってきた。 「息子さんですか?」 「はい」 「お父さん、突然いなくなったので、お電話させて頂いたのですが、お帰りですか?」 少し混乱したが、 「はい、帰ってます」 「それはよかったです。心配になりましたので」 「わざわざすみません。撮影は途中ですよね?」 「それは大丈夫です。まだ時間に余裕がありますので」 少しホッとした。 その後、父に聞いてみたが、 「頭が痛かっただけや」 その言葉を残し、ベッドに横たわってしまった。 父の『もの忘れ』は親戚の集まりでも話が出た。 もちろん、お酒を飲んで寝ていた父に気付かれないように。 叔母さんが、 「『もの忘れ外来』がある病院知ってるから、一度連れて行ってみては?」 初めて聞いた言葉であるが、 今の父の様子からしても、一度診察をしてもらおうと決心した。 ただ、少々のことでは病院へ行かない父をどうやって・・・ 騙すつもりではなかったが、ウソをついて連れ出した。お見舞いだと。 病院へ着き、診察をしてもらったが、 父は理解していないかのように、素直であった。 後日の検査も同様であった。 母と私は医師の説明を聞いた。 病名『アルツハイマー型認知症』 言葉は目にした事があるが、具体的な説明を聞いていくと、 母も私もショックを隠し切れなかった。 とりあえず、特効薬ではない薬を飲み続けるしかないと言うのである。 母はパートを辞めた。 それから1年、私が34歳のときである。 父の『徘徊』が始まった。 体力のある父の徘徊は、1、2時間はざらである。 まだこのときは、家に戻ることが出来たので、 母も私も『散歩』感覚で楽観視していた。 さらに1年が過ぎ、徐々に母や私が『誰』なのか、 理解していないような素振りが出始めた。 そのせいか、イライラし出すようになり、 父の頭の中で『逆らった』と判断されると、 手が出るようになってきた。 徘徊も心配になり、母がついていくようになっていった。 この年の4月、母と私は父を連れて花見に行った。 もう半分ほど散っていて、人気はまばら。 とりあえず桜の木の下でお弁当を食べた。 久々に父の笑顔が見られ、母も私も笑顔になった。 しかし、この花見が最後のお出かけらしいお出かけとなる。 この年から、『デイサービス』を利用し始めるようになった。 父の衣服には『位置検索システム送信器具』を付けていたが、 心配の母は徘徊の2回に1回ついて行った。 徐々に母の言う事を聞かなくなっていった父。 私が迎えに行く回数も増えていく。 トイレもうまくできず、紙パンツを履かせていた。 言う事を聞かない母の変わりに、この仕事も私の役目となった。 母は私に申し訳無さそうに言うが、 これくらいしかできない私のほうが、母に申し訳ない気持ちであった。 なにより、父が認知症であると聞いても、 近所のほとんどの人は、そこまでの苦労を知らない。 見た目は普通であり、あいさつ程度なら対応できるから、 母の『もどかしさ』は、さらに大きかったはずである。 私は38歳となった。 母も年を取り、父の徘徊に付き添うのは限界であった。 そんなときに、ある『医療施設』に勤める知り合いがいると聞き、 とりあえず説明を聞かせてもらった。 『ずっと施設に預ける』 母も私も抵抗はあった。 が、そんなことを言っている精神的余裕が無かったのも事実である。 父には申し訳ないが、預けることを決心した。 もちろん空き部屋に入るには順番待ちの状態であるが、 父の病気の状況と、知り合いの紹介ということで、 それほど待たずに入院させることができた。 病棟内は自由であるが、施錠扉があるため、外には出られない。 県外(車で高速使って1時間半)のため、そう来れなかった。 1ヶ月に1回程度見舞い。 本当なら、もっと来てあげたかったが、 施設の料金は、私の今の収入ではとても払いきれず、 アルバイトを始めていたので、これが限界であった。 見舞いに行くと父が笑顔になった。 母が誰なのか、私が誰なのかは、もはやわかっていない。 薬のせいで、おとなしく、少しやつれた感じであったが、 それでも笑顔になってくれることがうれしかった。 半年たったある日、 施設から携帯に電話がかかってきた。 「肺炎をおこされまして、容体があまりよくありません。来てもらえませんか?」 今日は母が出かけて、いない。 私も納品寸前の仕事を抱えていたが、とっさに車を走らせ施設へ向かった。 着いて父の部屋へ大急ぎで行くと、父は酸素マスクをし、少し息が荒かった。 常駐されている医師の話では、 「回復される見込みは50%、とりあえず今は落ち着いてます」 「50%ということは?」 「回復されないと、体力的に明日、あさって、もつかどうかです」 私は言葉が出なかった。 医師が続けて、 「今日はどうされますか?」 「しばらくいますが、どうしても仕事を納めないといけないので・・・」 「わかりました。何かありましたらご連絡しますので」 「ありがとうございます」 医師が部屋を出ると、 私は自然と父の手を握り、ずっと顔を見ていた。 『大丈夫だから』と願うように。 1時間ほどそのままいたが、 『信用問題』に関わる仕事であったため、やむなく施設をあとにした。 帰って、母に事情を説明した。 母の動揺は感じ取れたが、 「預けたときから、いずれはって覚悟してたことやしな」 意外な言葉であった。 ただ、私も少なからずそうであったので、軽くうなずいた。 何とか深夜のうちに仕事は終わった。 ふとんに入って4時間ほどの午前5時過ぎ、突然携帯が鳴った。 「お父さんの容体が急変したので、すぐに来てください」 「わ、わかりました」 急いで母を起こし、車で施設に向かった。 高速に入って、しばらく走ると、再び携帯が鳴った。 母に携帯を渡し、出てもらった。 「はい、はい、・・・そうですか・・・」 少し言葉を詰まらせ、 「色々ありがとうございました。あと40分ほどで着きます」 電話を切ると、 「お父さん、今しがた息をひきとったって」 「そうか〜、間に合わなかったか・・・」 冷静な素振りを見せたが、さらにアクセルを踏み込んで走らせた。 着いて、かけ足で父の部屋へ行くと、 父は白くなっていた。 母は、看護師さんのもとで泣いていた。声を出して。 私はしばらく動けなかったが、涙は出なかった。 その晩お通夜、翌日告別式。多くの方の参列。 喪主の私は慌しかったこともあってか、 一度も涙を流すことはなかった。 無事告別式を終えた晩、 母は疲れたせいもあって、早めに就寝したが、 私は仏壇の前でボーっとしていた。 一人になると、色々なことを考えてしまう。 『父は幸せだったのだろうか』 『私は親孝行できたのだろうか』 なにより 『父の死に目に会わせてあげられなかった母に・・・』 最後の父の姿を知ってるのは母ではなく私であること・・・ そのとき涙が溢れてきた。 止まらない・・・ あのときの私は、父にも母にも申し訳ない気持ちでしかなかった。 涙はしばらく止まらなかった。 (さいごに) 『認知症』という病気は、今や深刻な病の一つです。 色々研究されているようですが・・・ 実は同じように認知症のお父様を、私の父と同じ年に亡くされた同級生がいます。 当時は色々話をしたり、励ましあったりして、本当に救われました。 温かいお言葉を掛けて頂いたり、 お力添えを頂いた皆様にも、本当に感謝いたします。 「ありがとうございました」 『介護』というのは想像以上に負担がかかります。 私は友人に恵まれていたことで、励まされ、気力をもらいました。 もちろん介護している当人にしかわからない苦労がありますが、 もし身近におられましたら、少しだけ気にかけてあげてください。 そして当事者のみなさん、くじけそうな時はあると思いますが、 負けないでください。 そして、できれば抱え込まないようにしてください。 このお話は実話である。 |
