南の楽園「波照間島」に太平洋戦争末期、辛い悲しい歴史があったことを知っていますか。
私がこの事を知ったのは、4年ほど前図書館で何気なく手にした1冊の本でした。
「戦争マラリア事件」
南の島の強制疎開 著者 毎日新聞特別報道部取材班
当時、石垣島、西表島の多くの地域がマラリア蚊が生息する汚染地域でした。
マラリア 今でこそ日本でなじみが薄いがハマダラカという蚊が、人の体内に原虫をうつすことによって高熱の症状を引
き起こす感染症で、現在でも世界中(特にアフリカ)で年間100万人以上の死亡者が報告されている。
米軍が慶良間諸島へ上陸したのが1945年3月26日です。
波照間にも3度ほど空襲があったようですが最南端の島は比較的のどかでした、
1945年2月のある日、波照間小学校(当時は国民学校)に
山下虎雄という青年が代用教員として赴任してき
ました。 これが波照間島民の辛い悲しい事件の始りでした。
25歳の青年教師は初め島民から歓迎されました。
しかし山下虎雄は偽名で(本名 酒○喜○輔)陸軍中野学校出身の残置工作員でした。
残置工作員…任務は、敵の上陸にに対し、撹乱、破壊工作、現地住民を組織してのゲリラ戦・・・などとされている。
当時沖縄離島に11人の離島残置工作員が密かに派遣されたが彼らが命令された任務が何であったか
彼らの口から語られることはない。
あのルソン島で発見された小野田少尉も残置工作員といわれています。
3月下旬、正体を現した山下先生(山下軍曹)は、軍服姿で現れ波照間島民に西表島への疎開を命じました。
理由は「米軍の波照間上陸に備え、島民の被害を防ぐため」。
これを聞いた島民は、米軍はすでに慶良間まで行っているのに、南の果てに戻って波照間なんかに上陸する
はずが無い、また西表島はマラリア汚染地帯だと疎開に抵抗したが、山下軍曹は軍刀を抜いて「反対する奴は
たたっ斬る」と脅した。特殊教育を受け武器を持つ工作員に対し結果は目に見えていた。
そして波照間全島民1,590人が強制疎開させられました。波照間島には、牛馬800頭、豚400頭、ヤギ1,700頭
ニワトリ5,000羽いました。米軍の食糧になるからと全ての処分を命じました。これらの処分された家畜は石垣島
へ送られ日本軍の食糧にされたと言われています。
そして、4月8日西表島の南風見、由布島へとカツオ漁船に分乗して疎開が始りました。
南風見での生活は困窮を極めました、6月には食糧は底を尽きマラリアに罹患する人が増え始めました。
しかし、疎開した時点ですでに戦争の勝敗は見えていました。4月1日には米軍は沖縄本島に上陸、6月下旬
には既に沖縄戦は終決していました。多大な犠牲を払ってマラリアの蔓延する西表島に疎開する必要は全くな
かったのです。
7月には死者が続出、島民は山下軍曹に帰島を願い出たが聞き入れてもらえず、意を決した波照間国民学校
の識名校長は、7月31日密かに石垣島に渡り八重山諸島守備隊の宮崎旅団長に惨状を直訴し帰島の許可を
得ました。南風見に帰った識名校長は、なおかつ反対する山下軍曹に従わず、全島民と共に波照間に帰島しました。
しかし、本当のマラリアとの闘いはこれから始りました。
4ヶ月ぶりに戻った島でも、既に食糧も食べ尽くし、荒れた農地を耕作できる体力も無く島民はソテツを食べ飢えを
しのぎました。1年程で波照間島のソテツ15万本が食糧にされたと言われています。ソテツ地獄は、マラリアの猛威
に拍車をかけました。
ソテツ地獄…琉球王朝は、飢饉の時の非常食にソテツの栽培を奨励しました。しかしソテツはその調理法を誤ると毒性のため
死にいたる危険なものでした。大正末期から昭和初期にかけての大恐慌では、多くの農民が口にするものがなく
ソテツで飢えをしのぎました。さらに台風や干ばつが拍車をかけ、海外移民、本土への出稼ぎによって生きようとした。
次々とマラリアに侵され、看病できる者も無く、ひどい家では死んでも墓を掘る体力も、墓まで運ぶ人もおらず
生き地獄でした。
波照間島民1,590人のほぼ全員がマラリアに罹患、死亡者500人、実に島民の3分の1が死亡した。
波照間国民学校学童323人のうち66人がマラリアの犠牲になりました。
南風見の海岸に識名校長が密かに刻んだ
「忘勿石」(わすれないし)が残っています。
(今回は見に行けませんでした)
「忘勿石 ハレルマ シキナ」 識名校長は、この石について生涯口にすることはありませんでしたが、ただ一度
だけ、何もしてやれず犠牲になった学童にたいする思いと、波照間島民が受けた悲劇に対し
〜ハテルマ島民よこの石を忘れる勿れ〜
との思いを込めて刻んだと語っています。
強制疎開は、八重山全域で行われ、八重山で直接戦闘行為(銃撃等)で亡くなった人は178人に対しマラリアで
亡くなった人は3,600人に上っています。
山下軍曹(本名酒井○代輔 戦後滋賀県在住 機会メーカー会長1997死去)
1981・8・7 戦後三度目に来島した山下軍曹に島民は抗議書を突きつけた、抗議書の内容は 山下軍曹の犯した
行為・島民の怒りが如実に表現されていて、私の拙い説明よりも、波照間島民の受けた悲劇、感情が分かって
いただける思うので長文であるがあえて紹介したい。
〈
抗議書〉
山下虎雄
(戦前の本名) ・ ・ ・ ・ ・ 殿
(戦後の本名) ・ ・ ・ ・ ・
あなたは今次大戦中から今日に至るまで名前をいつわり、波照間住民をだまし、あらゆる謀略と犯罪を続けて来ながら、
何らその償いをせぬどころか、この平和な島に平然として、あの戦前の軍国主義の亡霊を呼びもどすように三度来島した
ことについて、全住民は満身の怒りをこめて抗議するものであります。
あなたは、今次大戦中に学校の教師の仮面をかぶり、また国民を守るはずの軍人を装いながら、島の住民を守るどころか
軍刀による抜刀威嚇によって極悪非道極まる暴力と横暴をふるまい、軍の命令といつわり、島の住民を死地マラリアの島へ
医薬品等皆無のまま強制疎開させ、全島の家畜を日本軍の食糧に強要させ、全島を家畜の生地獄にさせ、またその後は食
糧難とマラリアで全島を人間の生地獄にさせ、そのために家系断絶や廃家を続出させたほどの悲憤の歴的事実を、あなたは
忘れたのか。
我々住民はこの平和な島の歴史に、たとえ戦時中といえども、あなたの謀略のよる極悪非道な犯罪とその傷痕はこの島
の歴史の続く限り忘れることはできない。
当時、あなたの犯した行為は、あなた自身がよくわかるはずだが、あなたの書かせた秘密戦史『陸軍中野学校』(昭和四十六年
発行)197頁より213頁の内容はあなたの良心のひとかけらも疑われるように事実を曲げ、悪の限りをつくした非人道的な行為を反省
するどころか正当化しようとする魂胆は卑怯千万の最たるものであり、全住民は怒り心頭に達し、絶対承服できるものでない。
如何に言葉巧みに合理化し、その責任を逃れようとしても歴史的事実が真実であり、あなたの卑劣極まる謀略手段をつくしても、
住民一人一人の脳裏に深く焼きつく傷痕は消えるものでなく、また真実を曲げて報道することは歴史に逆らうものであり、断じて
許しておけない。
あなたが三度来島したことは、その犯罪を正当化し、事実を曲げるためのものであり、住民を愚弄するのも甚しい。また、あなたが
戦前と変らず軍国主義の謀略の手先となって暗躍するあなたの正体を見ぬき、再びこの島の平和を乱すものであることを考えると
我々住民は悲憤の涙をのんで亡くなった方々や我々の子孫のためにも、その謀略を再び許してはならないことを決意し、ここに
全島民は満身の怒りをこめて、あなたの来島を厳重に抗議する。
尚、今後我々の抗議に逆らって来島するようなことがあれば、如何なる事態が発生しようとも我々にはその責任を負えないことを申し
添えます。
昭和五六年八月七日
抗議書は、波照間公民館長 浦中浩氏により読み上げられた。
これ対し山下軍曹は、一言「抗議を受けるなんて心外」と言い残したと言われる。
参考文献 ・「戦争マラリア事件」 著者 毎日新聞特別報道部取材班
・「波照間島あれこれ」〜終わらない戦争-強制疎開マラリア事件
http://www.kt.rim.or.jp/~yami/haterumamenu.html
お詫び 文中の表現等に参考文献と類似する箇所につきましては、
このマラリア事件に対し、同じ憤りを感じる者同士として、お許し
いただきたい。