うらたじゅん試論
過去へと向かうまなざし
宮岡蓮二

 うらたじゅんの作品を初めて読んだのは『幻燈』一号に掲載された「冬紳士」だったと思う。そのころ私はもうマンガを読むことから離れてしまい、たまにつげ忠男の作品を読み返すか古い貸本マンガを読む程度でしかなかった。だからうらたじゅんがどのような作家であり、どのような作品を描いているのかはまったく知らなかった。今となってみれば、彼女には一九九七年に関西の「幻堂出版」から出た作品集『赤い実のなる木』」があり、そこに収められた作品のひとつ、「情人たちへ」は、<1980年作>となっており、マンガ家としては長いキャリアを持っていることがわかる。
 初めて読んだ「冬紳士」の印象はそれほど強いものではなかった。絵に対する違和感があったからである。もっとも、同誌に掲載されたほかの作品の持つどこか神経症的な絵とは違って、のびやかな絵だなという感じはあった。しかし、線の無神経さ、頼りなさが気にかかったのである。
 それでも、その後『幻燈』に掲載された作品を読んでいくと、気にかかっていた線も、のびやかさを失わずにかなり洗練されたものになっていく。とくに『幻燈』三号に掲載された「鈴懸の径」の線の美しさには驚いたものである。また、同誌には「シーサイドホテル」「浮世一夜」のうらた作品が掲載されているが、それぞれペン使いは意識的に変えられている。とくに絵のことに限っていえば、「浮世一夜」は筆を多用し、それまでの作品が持つ白っぽさから離れて、黒ベタも多くなる。ここにいたって、私はうらたじゅんの絵に対する違和感を払拭することができたといっていい。それはたんに筆を使うこと、黒ベタを多用することといった私の好みに近くなったからではなく、絵、とくに線に対する作者の思い入れが強く感じられるようになり、それが好ましかったからである。

 第二の作品集の表題にもなった、「真夏の夜の二十面相」は二八ページの短いものだが、深い奥行きをもった作品である。それは、たった一六ページの「冬紳士」にもいえる。
 「真夏の夜の二十面相」をみてみよう。
 はるか遠景に江戸川乱歩がいる。江戸川乱歩の経歴が語られるだけだが、これはこの作品のなかで大きな意味を持つ。その経歴は明智六郎のモノローグとして表現されるのだが、この国の戦後のありようが、そこにまず示されているといっていい。それは作者の歴史観、社会観を語っているともいえよう。中遠景に、六郎と映子の子ども時代。近景に成長したふたりと壮一の出会いとエピソード。そして「現在」。送り主不明の三個の段ボール箱に入った本が映子のもとに届き、その本に埋もれて二晩眠り、三日目にそれを書棚に収めたというのが「現在」である。
 送り主の名のない荷物が届いたことによって、壮一という人物が浮かび上がる。そしてそれは、壮一を軸とした、六郎と映子の多感だった過去の時代の物語へとつながっていく。その中心にあるのは、映子と壮一の恋であるのは間違いないけれど、六郎の悲痛な恋もまたさりげなく語られている。しかもそれらは時系列にしたがって描かれてはいない。「思い出」が浮かび上がるとき、かならずしも時の流れに沿わないと同じようにである。それは、作品集でいえば、十六、十七ページの描写に顕著だ。この二ページには、八つのコマがあるけれど、時間の流れはまったく無視されている。いや、無視されているのではなく、「思い出」というものはこういうものだと、うらたじゅんは示しているのだ。とりわけ、肉体と精神の高揚時において、時間の流れなど無に等しいことを。いや、「肉体と精神の高揚時」などと書けばウソになる。官能の昴まりのときにおいて、というべきである。
 このように重層的で複雑な構成を持ってはいるけれど、「真夏の夜の二十面相」は難解な作品というわけではない。なぜなら、主軸となるテーマがきちんと押さえられているからである。もちろん、テーマだけが問題なのではない。マンガという表現をテーマのみに絞って語るのは片手落ちである
 この作品を一言で言えば、「生」と「死」をめぐる物語であり、その両者をつなぐ重要なファクターとして「官能」が存在する。これはほかのうらた作品にも通底する要素だ。「真夏の夜の二十面相」に限らず、うらた作品は性愛描写が多い。しかしそれは、「官能マンガ」「エロマンガ」であることを意味しない。人が生きるための重要な要素として「性愛」があり、「官能」があることを語りかけているのだ。すなわち、自らの「生」と「死」を認識するためには避けて通れないものとして「性愛」があり「官能」が描かれているといってよい。そのことは「真夏の夜の二十面相」においては、遠景におかれた乱歩の生涯のモノローグが「性愛」のみに堕さない抑制として働き、「性愛」が「性愛」描写だけとして一人歩きするのではなく、自立した個人の成長に不可欠なものとして描かれる。また、「鈴懸の径」においては逆に「性愛」そのものは描かれなくとも、どこか性的な香りがひそかにただよう描写が、戦争にかり出される学生たちの「生」と「死」のはざまに、ある苦悩を静かに描き出す重要な要素になっている。
 『幻燈』に初めて掲載された「冬紳士」にはそのような描写はみられない。しかし、そこで語られているのも間違いなく「生」と「死」をめぐる問題である。
 ここにあげた三作、「冬紳士」「真夏の夜の二十面相」「鈴懸の径」のラストページはすべて、一ページ大のコマに一人の人物だけが描かれている。「冬紳士」以外は羽根をつけた人物であり、それはたぶん死者なのだろう。「真夏の夜の二十面相」と「鈴懸の径」が、過去へとさかのぼる物語であるとすれば、「冬紳士」は過去をたぐりながらも未来へと向かう物語である。「さらば!!」と語りかける少年二十面相も、銃を下に置き、六法全書に目を落とす学生も「死」の世界からたぐりよせられた者たちである。うらたじゅんは死者を通して過去へと向かい、その過去を自らのものとして自律へと向かう。そして、その死者たちと別れを告げるとき、あるいは死者に別れを告げられるときに、新たな自己を発見する。「冬紳士」のラストページ、「ぼくの名前は/木村サトコ/もうじき/ハタチ」という言葉は未来を暗示しているといっていいだろう。この作品が、作品集『真夏の夜の二十面相』の最後に置かれたことはそのような意味もあってだろうと思われる。
 もちろんそのような作品だけがうらたじゅんの世界ではない。
「思い出のおっちゃん」や「天王寺夏絵日記」といった楽しい作品もあるし、「RANDEN」もそういった作品である。これらの作品では、うらたじゅんは絵を描くことを楽しんでいるかのようだ。じじつ、絵と物語がうまくかみ合い楽しい作品である。しかしその楽しさは、ある種の哀しみに裏打ちされているとみることもできる。また、「秘密の姫君」も楽しい作品なのだが、不気味さを内包している。現実の社会とは逆転したジェンダーの中、閉ざされた空間において男である父親はある種の恐怖感にとらわれながら衰弱していく。そしてそれは、深刻な問題を深刻なものとして描くのではなく、不思議なおかしさに包まれて表現されており、ブラックなユーモア作品である。
 「思い出のおっちゃん」のユーモアは、「おっちゃん」という存在の哀しみに目を向けずにはいられないし、「おっちゃん」の後ろ姿や「おっちゃん」を見つめる藤井君と佐々木さんの表情にもそれはあらわれている。また、「天王寺夏日記」の蒸発中の「おっちゃん」もそうである。しかし、これらの作品では哀しみは前面には出てこない。どちらの作品もラストのページで読者は「おもしろさ」に救われるのである。どこか、つげ義春作品にもつながるようなラストである。
 ラストページの秀逸さはうらた作品の特徴でもあるが、たとえば「眠れる海の城」のラストもそうだ。ここでも過去と現在が交差し、いきとしいけるものの哀しみが抑制の効いたタッチで描かれている。そして読者は、このラストページで、深い悲しみに襲われながらもどこかで救われるのである。

 『赤い実のなる木』に収められた作品のうち、「情人たちへ」は八〇年の作品であることはさきに触れた。また、「泊めてくれ」や「MANHOLE」もその頃の作品かもしれない。これらの作品の絵は、現在のうらた作品の絵からはほど遠い。一般的な青年マンガの絵といっていい。この『赤い実のなる木』は、さまざまな傾向の作品や文章が並べられ、雑然とした印象をあたえるのだが、うらたじゅんの絵がどのように変わっていったかを知ることができる。八〇年代に描かれたと思われるこれらの作品についていえることはあまりない。少女マンガの延長であったり、青春マンガそのものであったりする。その絵は今のうらた作品を読むものには同一の作者によるものとは決して思われないだろう。多用された黒ベタと描き込まれた斜線は六〇年代から七〇年代の暗さを引きずっているかのようである。しかし、この時代を経なければ今のうらたじゅんはなかったのかもしれない。この、かなり神経質な絵がどのようなきっかけで変わったのかはわからない。しかし、「絵」を描くということが、マンガにおいてはもっとも重要な要素であり、そこにこそ作家性はあらわれることにうらたが気付いたのはたしかだろう。
 「真夏の夜の二十面相」には、物語の展開とは無関係と思われるような過剰なほどの描きこみがある。コウモリやヘビ、蝶や金魚、猫などである。この作品では蝶のシルエットがところどころに描かれている。作品集で言えば、七、一三、一九、二五、二九、三一ページである。この蝶のシルエットは、作品の中で重要な意味を持っているといっていいだろう。それが、ほかの描きこみによってぼやけてしまっているのが残念だ。もっとも、たとえば「秘密の姫君」のそれは、きわめて効果的である。
 うらたじゅんが描く、小動物や昆虫、植物は彼女の作品の中でどのような意味を持つのか。「あしたののべに」にそのような志向性がうまくいきたことは間違いない。それもまたうらた作品にみられる「生」と「死」をめぐる問題の違った展開といえるのかもしれない。過去へとさかのぼるのではなく、「自然」という「現在」にその「生」と「死」をみつけようとするかのようだ。
 うらたじゅんの作品が開示する世界は、「生」と「死」の相克である。彼女の過去へのまなざしは、その「生」と「死」を経て未来へと像を結ぶはずだ。古い作品では、他者や社会との違和感が直截に描かれているけれど、新たな作品にはその影は薄い。しかしそれは、そのことから目をそらしたからではない。もっと深く、この社会と自分自身のありようを問い続けた苦闘の果てにたどりついたのが現在の作品群である。その苦闘は、マンガ表現上でのものであると同時に、個人的な体験、たとえば「シーサイデホテル」に描かれたような世界、また「病窓紀行」にユーモアをまじえながら描かれたような世界での苦闘、親や社会との苦闘である。そのような苦闘は前述した他者や社会との違和感と同様、作品のおもてにはあらわれない。しかし、このどこか哀しみにも似たものがただよううらた作品は、マンガ作品としてきわめて自律したものといえるだろう。それがもっともよくあらわれた作品が、「眠れる海の城」のように私には思われる。大きな物語と、小さなエピソードがみごとにつながり、そこに描かれた哀しみも昇華されているからである。


2004/04/28『幻燈』5号より