三宅秀典 対談 うらたじゅん

第1回●貸本屋と子どものころのマンガ体験について

 

うらたじゅんの小、中学生のころ描いた絵

お絵かきノート

小学生のころの絵

中学生のころの絵

 

三宅 まず、僕からうらたさんのマンガ体験を聞きたいと思います。おたがいのマンガ体験の経歴を書き出したものを最初に準備しましたが、このうらたさんの経歴を読むと、7歳、いやその前の5歳くらいから貸本屋に行ってたんですね。
うらた 貸本屋は、小学校に入っていたから、7歳になってからですね、多分。それ以前の体験では、5歳まで住んでた大阪市内の団地の一室に本を置いてる部屋があって、そこで『めばえ』とかの子供向けの本を買ったり、借りたりしてた。けど、それが貸本屋かどうかわからないの。兄と一緒に行ってたから、自分ではお金を払わないでしょ。だからお金を払ってかりたのかどうかもわからない。昔はそんなことあったのかしら、団地の一室で貸本屋をやるようなことが。
三宅 団地の中の一室で?
うらた ええ、大阪湾近くの川沿いのちっちゃな団地なんだけど。
三宅 それは多分貸本屋じゃなくて、公共的な、図書館とまではいかないでも団地に付設された図書室じゃないのかな。
うらた でも、お金を払ってたような気がする。
三宅 なんだろね。
うらた 営業しちゃいけないんだけど、こっそりやってたのかな。
三宅 そういう可能性もあるかなあ。
うらた はっきりと自分ではんこ押してもらって借りに行ったのは小学生の時に、親戚の家で。
三宅 親戚の家で? それはその団地じゃなくて。
うらた ええ。父の実家の讃岐とか母方の親戚の岡山とかで。
三宅 親戚の家に遊びに行ってその近くの貸本屋に行ったんですね。それはその親戚の人がその店の会員だったんでしょうか。その人に連れていってもらって。
うらた 会員になってたのかなあ。会員じゃないとだめなの?
三宅 住所の確認がとれればいいんだろうけど。米穀通帳とかで。
うらた そうそう、米穀通帳ね(笑)。じゃあ誰か会員になっていたんだろうね。
三宅 その会員に誰かに最初は連れていかれて。そのあとは顔を覚えてもらってるから、それで大丈夫だったんじゃないかな。
うらた そうかなあ。岡山の方で憶えているのは、またいとこが多分会員だったから、その子と借りに行ったと思う。四国の讃岐は父の妹がひとりで住んでいただけだから、彼女会員だったのかなあ。
三宅 多分会員だったんでしょう。
うらた 親戚の家に行くと、貸本屋がめずらしくて、毎日借りては読みで。5歳以降住んでた大阪郊外の団地にはなかったようなものばかりだったから。だから、親戚の家に行っていた夏休みの間は毎日のように借りてた。
三宅 そうか。夏休みだからけっこう長い期間親戚の家にいるんだよね。
うらた そうそう、1週間とか。その間毎日。
三宅 毎日続けて行けば、信用もできるしね。それに田舎だと、どこのだれそれってわかってるからね。初めて入った貸本屋の印象はどうでした? 薄暗くて、なにか秘密っぽい感じを受けたというような話を聞いたりしますが。
うらた 初めて貸本屋に入ったのは昼間だったと思うけど、その時の印象はよく憶えてない。初めての日か翌日かの夜に、貸本屋へ走った時のことは憶えてる。夏休みに讃岐の家にいた時だった。兄が昼間借りた本を読んでしまったので、今からまた貸本屋へ行くと言い出した。母は「明日にしなさい」と言ったけど、兄は聞き分けなかった。貸本屋が珍しかったので私もまた行きたくて、兄に付いて行った。うどん屋さんや乾物屋さんや金物屋さんや色んなお店の前を通って走って行った。昼間歩いた道でも夜には様子が変わるので、なんだか心細くて、必死になって兄の後を付いて走って貸本屋にすべり込んだ。その時の貸本屋の店明かりは、灯台の光の如く、に見えたと思う。店内のことは特に憶えてないけど、貸本屋さんで本を借りることそのものが「ゴッコ遊び」みたいで面白かった。貸本屋さんは私には非日常で、夏休みの特別な遊びだったから。夏休みの経験だから、貸本屋に行ったのはやっぱり小学校に入ってからだね。
三宅 僕も小学校に入ってからだったと思う。そのころ読んでいた貸本マンガを憶えていますか? 作家の名前とかは忘れたとしても、作品の内容とか。
うらた 小・中学生の頃に通っていた耳鼻科の待合室に貸本マンガと『ガロ』が置いてあって、そこで読んだ貸本マンガの中に一つ思い出があります。「サラ」という名前の美少女が出てくるマンガ。内容はよく憶えてないけど、少女マンガ定番の悲劇のヒロインだったような気がする。逆境の中でも健気に生きて、最後にはハッピーエンドになる。そんな話だったような気がする。サラのことを陰ながら見守る美少年がいて、林かどこかの木陰から少年が「サラ」と呼びかけるシーンだけ憶えてる。構図や絵はよく憶えてないけど、そのシーンを読んだ時、「サラって、なんて美しい響きの名前かしら」と思った。それで一時期は、自分で描くマンガの主人公の名前をいつも「サラ」にしてた。三宅さんは、どんな貸本マンガが印象に残ってますか?また貸本屋の思い出は?
三宅 僕が最初に貸本屋から借りたのは、多分月刊少年誌だったと思います。『少年』とか『ぼくら』『日の丸』なんかですね。そのころの月刊少年誌は別冊付録の多さを競い合っていて、B5判サイズの本誌に10冊ほどのB6判の付録がついていました。本誌に掲載されたマンガの続きをその別冊で読むわけです。別冊付録は全部タコ糸のようなもので綴じられていたと思います。本誌のマンガを先に読まないと、別冊からでは前月号からの話の流れがわからないのですが、僕は弟と一緒に借りていましたから、1冊だけしか借りられないときは、どちらが本誌を先に読むかでよくもめました(笑)。月のはじめか終わり、どっちだったかはっきりした記憶がないんだけど、同じ時期にまとめて発売される月刊誌をあらかた読み終わると、もう読む本がなくなる。そこで、棚に並んだA5判の、いわゆる貸本マンガを読み出すようになったと思います。そのころ、僕たち一家は叔父の家に居候のようなかたちで暮らしていたのですが、一緒に住んでいたいとこが白土三平、平田弘史のファンでした。彼の父は映画館、それも東映系の映画館の看板描きでしたから、時代劇がおもしろかったんでしょうね。そういった影響もあって、彼らのマンガを読み出したのですが、その一方で鈴木出版社から出ていた「手塚治虫選集」なども何度も借りて読んでいました。
僕が住んでいたのは、福岡市の住吉という、繁華街の天神や中洲まで、あるいは博多駅までそれぞれ歩いて15分くらいのところで、いわゆる住宅街だったと思います。隣は味噌工場でしたが。その近くに貸本屋は3軒ありました。そのうちの1軒に入り浸りでした(笑)。
うらた 私は1歳から3歳までは、大阪市内の北部にあった父の社宅に住んでた。昔のアパート、独身寮というか文化住宅のようなところ。
三宅 それは高層住宅じゃなくて平屋の。
うらた そうそう。大阪市内は空襲にあって住むところがなかったけど、森小路という下町は焼け残っていて、父が勤めてた水道局の寮があった。もともと独身用のものだから1間で、父が独りで住んでて、そこに母がお嫁に来て子供が2人生まれて4人家族になった。だから部屋の外の廊下にまで家財道具を置いてた。昔の学生アパートみたいなとこ。
三宅 じゃあ、貸家式のアパートじゃなくて……。
うらた 靴脱いであがるような。
三宅 屋内の廊下の両側にそれぞれ部屋が並んでいるような。
うらた そうそう、台所もトイレも共同の。
三宅 こういう感じの、このあたりに台所があって、共同の流しや大きなテーブルがあって、このあたりにトイレがあって(と、図解する)というような。
うらた 住人に結核の人がひとりいたから炊事場がねえと母が言ってたような記憶がある。
三宅 そのあたりに貸本屋はあったんでしょうか。
うらた いっぱいあったと思うけど、小さなころだから憶えてないなあ。
三宅 小学校に入ってからは、月刊少女マンガ誌を読んでいたんですね。
うらた 『りぼん』と『なかよし』。私が『りぼん』、友達が『なかよし』を買って、学校で交換して。みんな交換するんです。
三宅 この経歴にある「リボンの騎士」は、うらたさんが買ってた『りぼん』に掲載されてた?
うらた それがね、「リボンの騎士」は『りぼん』だと思い込んでいたんだけど、『なかよし』だったみたいなのよ(笑)。
三宅 それはちょっと確認したほうがいいかもしれないね。『りぼん』に連載するから「リボンの騎士」だと僕も思っていたけど。
うらた でも、友達は「なかよし」だったって言うのよね。
(注:「リボンの騎士」は、大日本雄弁会講談社『少女クラブ』に1953年(昭和28)1月号〜1956年(昭和31)1月号まで掲載。その後、講談社『なかよし』に1963年(昭和38)1月号〜1966年(昭和41)10月号に掲載された)
三宅 お絵かき帳にコマ割りしたマンガを描き出す、とありますが。
うらた それはね、小学校2年の頃だったと思っていたんだけど、高学年になってからでした。2年のころは日記帳にちょっとカットを描くくらいだった。
三宅 じゃあ、4年生くらいからかな。
うらた 4年生くらいから。4コママンガとか。
三宅 へえ、4コママンガ。
うらた 4コママンガとか……、今日持ってきたこんな(と、ノートを取り出す)。
三宅 ええっ、こんなのとってたの。
うらた あったんですよ。これは、中学のときの。
三宅 表紙は細川知栄子みたいですね。典型的な少女マンガですね。
うらた これは小学生高学年のころだったと思う。友達が「はやく続きを描いてくれ」って言うから忙しいんですよ。
三宅 うらたさんが描いたものをみんなが回して読んでいたんですか。
うらた そう、1冊のノートに3本立てとかして(笑)。連載なんだけど、絶対最後まで続かない。清村純子という名前で描いていて、「清村純子先生のインタビュー」とか自分でやったりして(笑)。こんなのがまだ何冊かあるけど、これはまだ絵がましなヤツ。
(注:清村純子というのはペンネームではなく子供のころの本名)
三宅 こういうのは、その当時好きだったマンガ家の影響を受けていますか。
うらた そうでしょうね。私、高学年のときは西谷祥子が好きだったから。目の描き方が影響受けてるんじゃないかなあと思う。このでかい目は。
三宅 細川知栄子や西谷祥子は少女マンガ雑誌で描いていた作家だったと思いますが、貸本マンガの影響は受けませんでしたか。
うらた さっき話した「サラ」のこと以外には、はっきりとした記憶はありませんが、何らかの影響は受けてるかもしれません。
三宅 (作品を見ながら)この少女は混血児なの?
うらた 黒人なの。
三宅 少女マンガで、登場人物がなんで黒人なんだろう。
うらた なにか読んだんだろうね、「アンクル・トム」かなんか。これは(べつの絵を指して)岡田史子の影響でしょうね。つまらないから、話は読まないでいいです(笑)。私、読み返したらなんてつまんないんだろうと思ってしまって。
三宅 これが小学生のころ、これが中学生のころ?
うらた あきらかに絵柄が変わっているでしょ。小学生のころは少女マンガ風で、これは岡田史子風だし。なんか『COM』の石森章太郎の「JUN」とかの影響受けてますね。
三宅 小学生のころのを見ると、コマは1本の線で区切られているだけだけど、このあたりになると、コマがちゃんとそれぞれ独立してるよね。
うらた そうです。多分ケント紙に描き始めたからじゃないかと思う。石森章太郎の『マンガ家入門』を読んだあとと前でかなり違いますよね。小学校6年のときはもう『マンガ家入門』を読んでいたと思うんだけど。三宅さんが中学生のときでしょ?
『マンガ家入門』が出たのは。
三宅 そうですね。
うらた 私は中学1年の夏休みに初めてケント紙に描いているから、それ以前に読んでいるはずなんです。
三宅 『マンガ家入門』が出たのは多分、1965年の暮れだったと思う。いや、違う、もう少し前だったかもしれない。うらたさんは、『マンガ家入門』を読む前は、こういうノートに描く少女マンガばっかりだったんですね。
うらた そう、自分ひとりで描いていました。友達と同じテーブルで描いたりはしてたけど。ああいうのって、不思議ですよね。「今日マンガ描こうね、遊びに行くね」なんて言ってノートや鉛筆を持ってきて。遊ぶっていってもそれぞれ自分のノートにマンガ描いているだけで。で、時々見せあいっこして。そんなことばっかりしてましたよ。
三宅 遊びの中のひとつとしてね。
うらた 三宅さん、しませんでした? 今日放課後一緒にマンガ描こうとか。
三宅 僕は兄弟で描いていたから(笑)。
うらた でも、あれってなんで楽しいんだろうね、人と一緒に描いて。中学校に入ってもマンガ描くのが好きな子と、「マンガ描くの好きだから」って仲よくなって、「じゃあ一緒にマンガ描こう!」とかいって。遊びに来てずーっとそれぞれのノートにマンガ描いてるんだもん。時々見せあいっこして(笑)。
三宅 小学生の高学年から、クラスではマンガを描くのが好きな子とみんなに認められていたって感じなんですね。
うらた 昼休みに描いているでしょ、すると隣のクラスからのぞきに来て「あの子、10組で一番マンガがうまい子らしい」とか言われて(笑)。うれしいからね(笑)。それで、勉強もしないで授業中まで(笑)。
三宅 授業中に描くっていったら、たとえば教科書の隅にパラパラマンガなんか描いてなかった?
うらた それはやってないです。
三宅 僕は小学生のころからやってたかなあ。
うらた パラパラマンガっていうのはよく聞くんだけど、そのころは全然知らなかった。
三宅 こういうふうに、教科書のページの角に描いて、パラパラやるでしょ。でもこっちからも描けるし、下も使える。
うらた それじゃ、教科書1冊で4本立てじゃないですか(笑)。
三宅 マンガっていっても、僕のは野球のピッチャーがボールを投げたり、バッターが打ったりするような単純なものだったけど。
うらた そういうのって高度な技術じゃないですか。
三宅 そんなことないよ。誰でもやってたよ。
うらた 男子だけだったんじゃないかなあ。そういうのってどこで憶えたんですか。

三宅 雑誌の付録にあったような気がするけど。夜店とかでも売ってたような気がする。それで憶えたんじゃないかなあ。
うらた 私、大切なことを体験してないような気がする(笑)。だって楽しいじゃないですか。授業中にできるし。
三宅 そうそう、授業中にやって、あとでみんなに見せる。中学になると教科書も厚くなるしね(笑)。そういうマンガの楽しみはメインじゃなかったと思うけど、僕はそんなにマンガを描くってことはなかった。コマ割りして描くなんて、ずっとあとになってからです。小学生のころは読むことが中心だった。
うらた 私はお話を考えるのが好きで、近所の小さな子を集めて即興でお話作って聞かせたりして。
三宅 じゃあ、うらたさんはそっちのほうからマンガに入ったのかもしれませんね。
うらた うん、お話作るのと絵を描くのが好きだった。
三宅 それだともうマンガにいくしかないですね。
うらた そうそう。私は小学生のころ喋るのが苦手だった。低学年のころは「さ行」がうまく言えなかったから、人と喋るのがちょっと苦手なところがあった。
三宅 僕はあいかわらず「イ音」がだめです(笑)。「き」とか「ち」とか「り」とかが。
うらた それじゃ人と喋るの苦手じゃなかったですか。
三宅 いや、そんなこともなかったけど。ただ、「イ」の音、とくに「り」は一度構えないと発音できなかった。いまもかなりあやしいけど。だから「起立」なんて声かけるのが苦痛で苦痛で。
うらた わかります、わかります。私も学校で最後の終礼の「せんせいみなさんさようなら」がちゃんと言えなくて、口パクで(笑)。それは口パクでもいいけど、「せんせい」とか「みやけさん」とか声をかけるときは「てんてい」「みやけたん」になるから、人に声をかけるのがちょっと苦痛だった。仲のいい子に「キ」がだめな子がいて、私のことを「チヨムラさん、チヨムラさん」言うねん。その子とだったら平気でしゃべれるねん。なんか、言葉の不自由な子同士って感じで、その子とだったら安心だけど。
三宅 話をマンガに戻しましょう。僕の場合は、野球とマンガという少年時代だったのですが、そのころの男の子はほとんどがそうだったと思います。僕もマンガをちゃんと描き出したのは、うらたさんと同じように『マンガ家入門』を読んでからでした。もっとも、その前に、このガリ版の会誌のような「劇画クラブ」に入ったり、作ったりしててけど。ペンを使うというのをおぼえたのも、こういう「劇画クラブ」だったけど、そのころはもっぱらカットや似顔絵ばかりでした。だから、僕は絵を描くことからマンガに入ったといえるかもしれません。
うらた 私はお話を作るというより、空想癖が強かったかもしれない。夜寝る前にいろんなこと考えてて。三宅さん、空想癖はどうでした?
三宅 僕はあまりなかったみたい。
うらた 私は夜お布団の中に入るのがすごく楽しみで。いろいろ空想しながら寝るんだけど、それがマンガになったのかもしれない。
三宅 僕はもう、夕食を食べながら、コックリコックリやってるほうだったから(笑)。
うらた
 眠りん坊ですね(笑)。
三宅 貸本屋からマンガを借りてきて、寝る前に読んでたことはよく憶えています。それに、古本屋に流れた貸本マンガなんかを買ってきては集めてました。最初は手塚治虫が中心だったけど、あとで白土三平の本も集めるようになった。銭湯に行く途中と、帰りに貸本屋、古本屋に寄って。空想癖とは違うでしょうけど、いつも行く古本屋に今まで見たこともなかった手塚のマンガが並んでいる夢をよく見ました。これは大人になっても見た(笑)。
うらた 銭湯に行くときに貸本屋に行ったという話はよく聞きますよね。紙芝居はどうでした?
三宅 それは小学生になる前だったと思う。
うらた 3歳までは前に話した文化住宅のようなところで暮らして、そのあとは5歳までは大阪湾近くのヘドロで有名な神崎川の横の団地に住んでいたんだけど、そこに毎日紙芝居屋が来てて、毎日それを見てた。その影響で小学生になって近所のチビたちを集めてお話をしてたんだと思う。
三宅 そのころの紙芝居の内容は憶えていますか。
うらた 憶えてない。
三宅 僕もほとんど記憶がないんです。
うらた 5歳までの記憶ってあまりないですよね。
三宅 紙芝居を見るには、水飴とか買わないといけなかったんじゃないですか。
うらた ちっちゃいからタダ見できたんでしょう。
三宅 紙芝居の内容は憶えてないけど、水飴を買ったことは憶えている。
うらた 私も水飴は憶えている。兄が一緒にいたから、兄が買って半分もらっていたのかな。
三宅 やはり短い割り箸2本で、白くなるまでこねて?
うらた そうそう。それをなめて。
三宅 じゃあ、僕の体験と同じですね。僕が住んでた町には小さな公園があって、そこにやってきてました。
うらた 毎日だったでしょ。
三宅 多分そうだと思うんだけど、僕はあまり紙芝居に刺激を受けたという記憶はないんだよね。
うらた 私の小さなときの記憶は、紙芝居とロバのパン屋かな。
三宅 それは福岡にもありましたね。
うらた その紙芝居と、さっき話した貸本屋かなにかわからない団地の一室、そこに本を借りに行くことが小さなときの記憶ですね。
三宅 うらたさんがマンガを描いたことにもどりますが、『マンガ家入門』を読んで本格的に描き出したわけですが、手塚治虫の『マンガの描き方』はどうでした。
うらた それは『マンガ家入門』のあとでした。
三宅 出たのは『マンガの描き方』が先だけど。

うらた
 そうなんですよね。でも私は『マンガ家入門』を先に読んだでしょ。だからこの『マンガの描き方』は、なんかつまんなくて。私の中では石森章太郎は手塚さんの弟子みたいだったんだけど、手塚さんの『マンガの描き方』のほうが、本は小さいしたいしたことないなあと思って(笑)。あとで読んだからでしょうね。
三宅 『続マンガ家入門』はどうでした?
うらた あれは買ってないですね。
三宅 やっぱり『マンガ家入門』のほうがショックが大きかったんでしょうね。
うらた 『マンガ家入門』と『マンガの描き方』は、私、まだ持ってますよ。
三宅 『マンガ家入門』は石森の自作「龍神沼」を素材に、マンガの描き方を解説してますね。あれは今読んでもかなり高度な解説ですよね。
うらた そうそう。
三宅 うらたさんが『マンガ家入門』を読んだのが65年か、66年ですね。
うらた 多分、66年、小学校六年生だったと思うな。
三宅 『COM』が創刊されたのが六六年の暮れです。『COM』も当然読んでいたでしょうから、うらたさんにとっては、そのあたりがマンガについてのカルチャーショックを受けた年でしょうか。『COM』には投稿したんですか?
うらた してない。私が投稿したのは24歳のときの『ぱふ』が初めて。


(つづく)