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2001年12月9日 「夢二のふるさと」



11月下旬の秋晴れの土曜日、母方の祖父の法事のため岡山まで出かけたついでに、以前から訪ねてみたかった竹久夢二の郷里に立ち寄った。JR岡山駅から赤穂線の鈍行で30分弱、「邑久」駅下車。邑久駅から「牛窓」行きのバスで10分のところに夢二の生家が現存する。明治17年(1884)夢二は、この茅葺き屋根の農家に生まれ幼少年期を過ごした。
 生家には、夢二少年の勉強部屋もある。部屋に足を踏み入れた瞬間、感慨深いものがあり、しばらく座り込んで眺め回していた。隠れ家のように暗くてひっそりとした、天井の低い四帖ほどの部屋だ。部屋の西向きの壁に小さな格子窓があり、その窓際に座卓(勉強机)が置いてあった。窓の前は、今は民家が建ってるが、昔は延々と平野が見渡せたらしい。その窓から四季の田畑や草花、旅をする獅子舞や巡礼たちを眺めていたという。
 16歳の時、夢二は実家を離れ神戸の中学に入学するが、家の経済事情で8カ月で退学する。夢二の父親が農業の傍ら手がけた酒造業が失敗し、借金の穴埋めに田畑を手放し生活が困窮したのだった。夢二17歳の時、竹久一家は親戚を頼って北九州八幡へ転居した。八幡では、政府の手によって東洋一の製鉄所が建設中だった。夢二は、建設中の製鉄所の製図室の筆工として働いた。その間に夢二は、社会の非道によって搾取される日雇い労働者や底辺の貧しき者たちの実態を目の当たりにした。
 18歳の時に夢二は家出して上京、翌年早稲田実業に入学する。苦学の中、同窓の岡栄次郎の影響で社会主義に傾倒して「平民新聞」にコマ絵を描くようになる。大逆事件で幸徳秋水をはじめ平民社の主義者たちが逮捕された後、夢二はそこから離れた。「絵筆折りてゴルキーの手をとらんには あまりにも細きわが腕かな」(夢二)
 夢二の生家の近くには「少年山荘」も建っている。これは大正13年(1924)に現・東京世田谷区に建てた「少年山荘」(夢二が設計したアトリエ付き住居)を復元したものだ。夢二が晩年を過ごした世田谷の「少年山荘」は、昭和9年(1934)に夢二が没した後、荒廃して取り壊されたが、次男の竹久不二彦の考証と記憶を辿って昭和54年(1979)、夢二生誕95年を記念して、この地に復元されたらしい。「少年山荘」の名の由来は、中国北宋の詩人・唐庚の詩「山静かにして太古に似たり、日の長きこと少年の如し」を典拠に夢二が名付けたものだ。
 夢二の生家を後に、バスで10分先の牛窓の海へ向かった。バス道の四方には、低くてなだらかな山々と田畑が広がる。山々の稜線は、夢二の描く美人画の柔らかい曲線のようだった。バスの終点である牛窓の海は、包み込むような静かで穏やかな瀬戸内の海。ここが夢二の故郷の海だ。牛窓港の裏通りには、時間が止まったような古くて寂れた路地がある。かくれんぼの鬼の如く、夢二の影を探して路地を歩き回っている内に、日が暮れはじめた。路地裏で買ったアンパンをかじりながら波止場に立つと、海に浮かぶ岬の山の背に、秋の夕陽がゆっくり沈んでいった。

2001年11月某日 うらたじゅん




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