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2001年4月28日 「1968年 わが漫研」



 小学校時代の私は、廊下の立たされ坊主の劣等生だった。成績表は「5段階評価」の「1」と「2」ばかりで、たまに「3」が紛れ込んでる程度。4年生の時に、はじめて「オール3」を獲得した。私にとっては、秀才の「オール5」に値する栄光だった。快挙だった。
 そんな私だったが、中学生になると突然変異のように急に成績がよくなった。しかし人格が天然ボケなので「秀才のくせにアホや」「勉強できるけど変人や」と言われ、リーダー的な役割を与えられることはなかった。
 授業中、心ここに在らずでボーッと窓
の外を眺めてる。休日は、ヒッピーのマネをして裸足で道を歩く。世間の常識に反抗してるつもりで、ペンダントを背中にぶら下げる。ペンダントは胸にぶら下げるものだという常識に反抗して背中にぶら下げていたのだが、単なる変人であったにちがいない。おまけにミニスカートで裸足で道を歩いてるのだから、こんな奇人変人が学級委員などできるはずはない。めでたく私は1度も学級委員にバッテキされることはなかった。が、小・中・高の学校生活の中でたった1度だけ「長」の付く役割をしたことがある。
 それは1968年、中学2年生の1学期だった。学校の廊下の壁に「マンガ研究会設立メンバー募集」の貼り紙をみつけた。呼びかけ人は利発な1年生のТ君だったが、Т君のご指名で私は部長の役を与えられたのである。
 マン研の部活のメインは作品合評会だった。土曜日の放課後、美術室に集まり、各自が持ち寄った作品を見せあい、互いに批評しあった。部長の私が手ブラで合評会に出ては、示しがつかない。平日の夜は創作にはげんだ。マン研のメンバーは全員「COM」を読み、数人が少し大人っぽく「ガロ」も読んでいた。それらは、子供向けの少女マンガや少年マンガにはない新しく実験的なマンガだったので、衝撃だった。その実験的な表現法を競い合うようにマネた。
 肉筆回覧誌も作った。若い人には聞きなれぬ単語だと思うので、説明すると…。肉筆回覧誌というのは、原画のまま製本された同人誌のことです。印刷された同人誌は、中学生にはまだ夢の時代だった。原画のまま製本した同人誌(もちろん1点もの)にノートを添えて、指定された順番に回覧する。肉筆回覧誌を受け取り、読み終えたら、同人たちの作品の感想をノートに書き込み、次の人へ回す。というリレー方式だった。全国規模のマンガ同人会では、小包み郵便で肉筆回覧誌をリレー郵送していた。私は学校でのマン研の他、全国規模の女の子ばかりのマンガ同人会にも入っていた。肉筆回覧誌の備え付けのノートには、作品の感想文ばかりでなく、女の子たちの恋の告白や悩み事なども書かれていたっけ。恋の話はおいといて…。
 私が中学を卒業した後、わがマン研は新聞部の協力を得て、簡易印刷の方向へと進展していった。かくして私は、枚方市立某中学校のマンガ研究会の初代部長であり、同時に、最後の肉筆回覧誌の発行者となった。
 1969年、私が中学3年生の文化祭の時に作った肉筆回覧誌の1ページ(拙作)を、ウレシハズカシお見せします。製本時の綴じ穴が見えやすいように、原画を紺色の台紙の上に置きました。時代を感じさせる、ちょっとサイケなイラストです。イラストの右端の穴が、綴じヒモを通した穴の跡です。じ〜ん…。ひとり感慨にふける筆者。


注釈
「ガロ」青林堂1964年(昭和39)創刊 
1968年頃の執筆者/白土三平・つげ義春・つげ忠男・つりたくにこ

「COM」虫プロ商事1967年(昭和42)創刊
1968年頃の執筆者/手塚治虫・石森章太郎・永島慎二・岡田史子

2001年4月某日 うらたじゅん




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