丁度、今日のような若葉の匂いが立ち込める暑い日だった。 とある集落の鎮守の森を散策している時、その境内で一番大きな楠の木の下に腰を下ろし、 煙草を吹かしている老人と出会った。 何かの作業中らしく、いくつかの道具と水筒などを地面に置いている。 視線が合うと、私は思わず挨拶した。 「こんにちわ」 老人は私のことを勘繰る様子もなく、すぐさま深々と挨拶を返してくれた。 「何をなさっているのですか?」 老人は煙草を大きく吸うと、青い息を吐きながら言った。 「ちょっとばかりこの辺をあらけようとおもうてな。悴どもがおった頃は毎週掃除しと ったんやけど、今じゃ年寄りばかりでな。だーれも掃除できんようになってしもうたんや。」 そういうと、人懐っこく笑った。 見上げれば、楠の大木。直径は優に3mを越え、根元には朽ちて大穴が開いている。 幹には違う種類の植物が自生し、人間の腕ほどのカズラが巻きついている。 カズラは木と異なり、成長が遅く特に太くなるためには木の何倍もの時間を要する。 これほど太いカズラは今まで見たことがない。 老人は煙草を一本吸いおえると、ナタを手に取るとそのカズラ目掛けて打ち込んだ。 つづけてもう一度。木っ端が飛び散り、カズラから汁が滴る。 私は慌てて老人を制した。 「ちょっとおじいさん、止めてください。こんな立派なカズラは他にはないですよ。こ れほども太くなるには100年以上かかるのを御存知なんですか?。」 老人は手を止め、不思議そうにこちらを見た。 「100年?、ワシが子供の頃時にみたこのカズラは親指の太さぐらいしかなかったけ どな。ワシの父親が丁度こうやって切った後でな。」 「そんな筈はないですよ。とにかく、そんな貴重なカズラを切るのは止めてください。」 必死の形相で言う私を見て、老人は手を止めた。 高ぶる様子も無く、静かに手にしたナタを下ろし、杖代わりにして立つ。 「若いシ、何処からきたんや?。」 「え、おっ、大阪ですけど。」 先程の人懐っこい笑顔を見せる。 「大阪か。来るまでだいぶかかったやろ。」 そして視線を木々の隙間から見える集落に移した。 「この辺りはエエとこやろ。何もないけどな。」 私も同じ方向に視線を移す。小さな山尾根の集落、どこを向いても草木の緑色が必ず目 に飛び込む。 田は水を満々と蓄え、銀色に輝く。芽吹いた緑色の木々は風に優しく揺れる。 遠くで聞こえる鳥の声、近くで聞こえる虫の羽音。 「いえ、自然がいっぱいですばらしい所だと思いますよ。」 老人はポケットから煙草を取り出し、再び火を灯した。一服吸うと、青い息を吐きなが ら言った。 「若いシ、自然とはなんやと思うんや?。」 私は突飛もない質問にすこしたじろいた。少し言葉を整理して、慎重に答えた。 「それは、ありのまの姿で、人間の手が一切入っていない事だと思いますけど。」 老人は私の答えに満足そうに頷くと、再び煙草を持った手を口に当てた。 「なら若いシが言う『自然』はどの辺にあらよ?。」 私は四方をぐるりと指差した。 「田や畑、山に小川、この風景全てがそうです。家や車、道路なんかは違いますけど。」 その答えを聞くと、老人はなお一層人懐っこく笑った。 「若いシが言う田圃はな、ワシの先祖が造ったもんや。その小川も谷から水を引くため に造ったもんや。」 老人はさらに山を指差す。 「その山、所々四角うに色が違うとこがあるやろ。一番色が薄い床とこはワシが若い頃 に植えた木や。その下の雑木は薪につこうとったんや。今はボイラーがあるんでだれも切 れへんから荒れてしもうたけどのら。」 さらに谷を挟んだ向こうの山を指差す。 「その山の、その向こうも全部植林や。戦時中にみんな伐ってしもうたんや。まぁ切る 前も植林やったんやけどな。 都会からきた人はみんな『自然』『自然』ゆうけど、自然なんてどこにもないんやで。 最初にここに住んだ人が山を切り開いて住みやすい所にとったんや。 水がほしゅうて谷から引いてきたり、薪がほしゅうて木を伐って雑木林にしたり、 強い風があたらんように大きゅうなる木を植えたり、ヤツ代わりに食べる実なる木植えた り・・・ほいでこんな風景になったんやで。」 老人は嗄れた手で楠木を撫でる。 「この森も、昔の人か植えた木や切らずに残した木や。お宮さんを守るためにってな。 ここから見える殆どがそうやって昔の人が時間かけてすこしづづ造ったもんなんや。」 そう言われてみれば、全て人間の手の入ったものばかりだ。 「でも、全て人間の手がはいった物ばかりじゃないでしょ。植えたのは人間だったも、 ここまで育ったのは自然なんだし。」 「稲や芋と一緒やで。テキらも植えられたのは人やねんけど、あがでに育つんや。 肥えまいて、虫がついたら消毒して。木も一緒やで。消毒したりはせぇへんけど、枝はろ うたり巻きついたカズラ取ったりして。ずっと昔からそうやってきたんや。」 老人は話を続ける。 「確かに若いシの言うとおり、鳥が種を持ってきて、落といて、それから芽が出て、カ ズラが大きゅうなるには100年はかかやろのら。 でもな、一回大きゅうなったカズラは根が張っとるから伐ってしもうても30年ぐらい で元の大きさになるんやで。 ガズラちゅうのは、大きなりすぎた木を枯らいて森を若返らせる生きモンや。 中には枯らさんで生かしておくモンもあるけど、上に覆いかぶさって結局は木を弱らせた り、風ふくんで台風の時に枝をおってもうたりするんや。この辺りは尾根やし、風が強い んや。ほれ、そこみてみい。」 老人が指差す先、森の近くを通る道路の真上には、折れた楠木の枝がカズラの蔦でぶら さがり、風で揺れている。 「運悪く落ちれば只事では済まないだろう。」 「あれぐらいの枝が折れることはようあるんやけど、ああやってぶらさがっとると、他 の大きな枝も折れてしまうんや。一ペンそうなってもうたら腐りが入って木の中がゴウロ ウになってしまうんや。そうなってみぃ、風に吹かれて木だとペローンって引っ繰り返っ てまうさか。そうなったら宮さんも宮の口の家もみなやられてまうわ。 でもな、ワシもほんまにカズラ憎うて殺いてまうんやったら根まで枯れるようにするわ 。そうなったら土が流れて楠木の根が出てきてしもうて、それを通る人が踏んだら楠の木 が弱ってまうんや。 カズラと木が仲良くやっていけるよう人がちょっと手をかしてやっとるんやで。」 「人間と共存するって事ですか?。」 「そんな難しい事はわからんけどな。若いシみたいな森が好きで来てくれる人がおるか ら、ずっと昔のままでおれるようこうやって世話しとるんや。ほれ、その足元も根をふま んように土盛っとるやろ。」 足元には新しく盛り上げた土があり、流れないよう木枝で枠を造り、歩きやすい階段に してある。 「この太いカズラは切ってしまうんやけど、そこの細いのは残いとくんや。また大きゅ うなるようにってな。ワシの悴が孫がまた切るやろうけど。」 そういうと再び老人はナタを振り上げて、カズラを伐りにかかる。 私は何か釈然としない気持ちでその様子を見ていた。 そな様子を気にすることもなく、老人はカズラを切ってしまった。 「難しい事はわからへんけど、人の一生ぐらいの長さで良いか悪いか言うより、もっと 大きな目でいいか悪いが考えなあかへんで。ここらへんに集落出来てからで千年ぐらいに なるからのう。ほいでここらの木は一本ではここまで大きゅうに育たへんねから。人が住 むことで大きゅうなったんや。 そんな事より、カズラが巻きついとったら、なんやこう首締められて肩が凝るんでな。」 そういうと老人はより人懐っこく笑った。大阪に戻った後も私は、釈然としない気持ちは続いていた。 だが、最近はそのハッキリしない気持ちが人間の持つエゴではないかと薄々感じるよう になってきている。 私の中で答えが出るには、もう少し時間がかかるようだ。