Enocolo Night
 風のない蒸し暑い夜だった。
 日付が変わったばかりの住宅地は閑散としていた。クーラーの室外機の音が四方から聞
こえ、明かりの灯った窓にはチラチラと青い光が揺らめく。
 長く延びた影が主を引き連れて歩いてくる。
 肩にリュックをかけ、早足で家路を急ぐ男性。ほろよい加減も峠を越し、そろそろ眠気
もでてきた。
 今日、偶然に高校時分の友人と出会い、久し振りに盛り上がった。
そのお蔭で帰りが随分遅くなっていた。
 彼が住むマンションまであと少し。この住宅地を抜け、道路を挟んだ向こう側。
 この辺りは古からの住宅地で大きな旧家がたくさん有る。路地は細くあちらこちらには
空き家も目立つ。
 誰も手入れしない庭木が大きく路地に被さり、寂しさが一層引き立つ。
 リュックの肩紐を握りしめ、脇目も振らず歩く男性をふわっと生臭い風が追い抜いた。

 その時、首筋を何かが駆け抜けた。
 足が止まり、思わず振り返る。
 切れかけの街灯が点滅し、誰も居ない路地。両側を高い塀に囲まれ、首筋に触れるよう
な雑草もない。
 何かが触れた首筋に手をやる。確かに何かが触れた感触はあった。
 男は自分に言い聞かせるように呟く。
 「気のせいだ・・・・・な。」
 残りわずかな酔いが急激に冷めるのを感じながら止めた足を前に進めた。

 居酒屋で昔話に盛り上がった時、高校での合宿の話になった。
 夏の合宿で夜ともなれば大抵は百物語。そのときに誰かが話た「キャシャンボ」の話。
今から思えば至極普通の人を食らう妖怪の話だっだか、次の日の朝、それを見たと言いだ
した奴がいて、大騒ぎになった。
 そんな話を今更の様に思い出し、皆で笑って飲んでいた。
 話の詳しい内容までは忘れてしまったが、彼には忘れられない思い出がある。
 全身毛むくじゃらで、一本足。大きくあけた口とこっちを見つめる青い目。
 そう、彼は見てしまったのだ。
 随分長い間、忘れていた事をつい昨日のように思い出していた。
 冷たい汗が背中を覆う。
 さっき見た後ろが振り返れなくなる。
 「どうして、こんな時に限ってこんな話をしたのか・・・」
 話にのった自分が恨めしくなる。
 足を少し開き、その間に唾を3回吐いた。
 この妖怪は人の足の間にいて、幻覚を見せて惑せる。同じ所をぐるぐる回して疲れさせ
倒れたところを食らう妖怪だと聞く。ただ、人間の唾が嫌いで、それがかかると慌てて逃
げだすとも。
 そんな事は迷信だと判っている。でもそんな無意味な事ですらやらずにはいられない。

 身震いを抑え、リュックを持ち直した時、再び首筋を何かが撫でる。
ブラシのような固い毛だ。
 首を抑え、振り向こうとしたが首が途中で止まる。
 痺れにも似た感覚が背中を駆け巡る。
 嫌な汗が沸きだし、走ろうにも足が出ない。
 声も喉の奥でつっかえる。
 耳元で聞こえる心臓の音が痛い。
 激しい喉の渇きを覚えた。
 見上げた先にみえる自動販売機。それを見た瞬間足が動くようになった。
 真っ直ぐ、輝く光に吸い寄せられる。
 背後を意識しつつ、財布を取り出し一番手短なボタンを押した。
 出てきたペッドボトルを開け、品名も判らないまま急かされるように喉に流し込む。
 大きくむせて、我に返る。
 手の甲で口を拭い、自動販売機を背にして闇のほうに目をやる。
 自動販売機の光が届かない闇がほんの数メートル先にまで迫る。
 自分の影が闇へと続く、まるで引きずり込むかのように。
 その向こうには違う街灯の光。ちょうど、人間の世界が闇のなかに浮かぶ島のように点
々と続いている。
 財布をしまうと、その手で携帯電話を取り出した。
 開いてみたが、電池の残量は既に空、画面を点灯させるだけで精一杯の状態だった。
 アラームだけが虚しく響き、間もなく携帯はその活動を休止した。
 消えた携帯電話を耳にあてると不思議と不安が薄らいでゆく。
 そのまま辺りを見回すが、何も見えない。
 ペッドボトルから滑り落ちた雫が画面に黒い染みを作る。
 微かに、遠くの方で自動車が走り去る音が聞こえた。
 その妖怪は、人に光の幻覚を見せて惑わすという。向こうに見える街灯も家の光も幻覚
かもしれない。
 この飲んだペックボトルも、この自動販売機の光も本当は幻覚だったのかもしれない。

 目に写る全ての物が疑わしい。
 心に沸き上がる疑念を打ち消すように大きく息を吸い込む。
 そして残りのペッドボトルの中身を一気に飲み干すと、再び足元に唾を吐いた。
 意を決すると、家に向けて歩きはじめた。
 数歩すすむとすぐに走りだしていた。
 転げるように角を曲がり、両手を振り乱して走り、もつれる足で階段を駆け上がる。
 急かされるように鍵をあけ、倒れるように玄関に入り荷物を床に投げ出す。
 センサーライトが彼を温かく照らすと、安堵感か、その場に座り込む。
 荒い息で俯くと、荷物にささった一本の穂。
 手に取るとそれは「ねこじゃらし」と呼ばれる雑草の穂。

 指先で回すと、可愛い仕種で穂が垂れる。
 多分、友達が悪戯で彼のリュックに突き刺したものだろう。
 理解したと途端、どっと疲れだ出た。
 自分が一人で大騒ぎしていたのが急におかしくなったが笑う気力は無かった。
笑みを浮かべたまま、ゆっくりと眠りに落ちていった。
 「−−−−明日、誰にこの事を話そうか・・・・」