【寄稿】

横取りされた過去−外国人登録原票の写しを手にして−

黄 英 治(ファン・ヨンチ)

 いささか唐突な書き出しだが、アルベール・メンミの言葉を引くことから始めたい。
メンミは一九二〇年、フランス植民地統治下にあったチュニジアの首都チェニスに、貧しいユダヤ人馬具職人の子として生まれた。奨学金をえてアルジェ大学、続いて宗主国のパリ大学に学び、パリ大学の社会心理学教授となった。現在もフランス語で著作を発表する作家・評論家として活躍している。「メンミは、植民地社会における現地人、アラブ社会におけるユダヤ人、ヨーロッパ社会における北アフリカ出身者という、三重に屈折した被抑圧者としての自己の個人的体験に徹底的にこだわり続けることにより、現代社会における支配と隷属、抑圧と差別という普遍的な問題をえぐり出すことに成功している」(アルベール・メンミ著、菊地昌実・白井成雄訳『人種差別』法政大学出版局、一九九六年、訳者解説より)。こうした思索の結晶であるメンミの人種差別の定義は、厳密かつ実態的で、あらゆる差別を白日にさらし、それと闘う人びとの有力な武器となっており、定評がある。

 人種差別とは、現実の、あるいは架空の差異に、一般的、決定的な価値づけをすることであり、この価値づけは、告発者が自分の攻撃を正当化するために、被害者を犠牲にして、自分の利益のために行うものである。(同前書)
 
 ここまではアルベール・メンミの紹介であって、私が引きたい彼の言葉は、『あるユダヤ人の肖像』(菊地昌実・白井成雄訳、法政大学出版局、一九八〇年)にある、次のようなものだ。
 「・・・・・・およそどんな作家も、自分の物語のきわめて特殊な独自性を通じて、人間の状況全体のある地点に到達することを願わぬものはいない。ところで、かかる道程が他の多くの道程を思い出させるということはよくある。つまり、ユダヤ人としての私の人生は他の多くのユダヤ人の人生であったし、この肖像は単に私の肖像に私の肖像にとどまらないということになる。・・・要するに、本質的にユダヤ人に共通する状況が確かに存在しており、〈ユダヤ人の状況〉なるものについて語ることができると、私は考えている」
 私は作家ではないが、アルベール・メンミの願いがよくわかる。そして深く同意する。この間、私は、アボジが黄泉(こうせん)の客となったことに触発されて、肉親にまつわるいくつかの物語を書き記してきた。それは、メンミが言うように、本質的に在日朝鮮人に共通する状況が確かに存在しており、〈在日朝鮮人の状況〉なるものについて語ることになると信じるからだ。そして、私は、まだそれを続けなければならない、とも考えている。

***

 アボジとオモニの外国人登録原票(登録原票)の写しを手にするまでには、思いのほか、手間と時間がかかった。
アボジの三回忌法要の前日、オモニがひとり暮らす〈丘の家〉へと向かった。アボジの遺骨は、名古屋市覚王山の日泰寺に納骨された。だから、法要だけなら、東京から名古屋で日帰りができるし、わざわざ〈生まれ故郷〉の岐阜県可児市まで足を伸ばす必要はなかった。それでも私が〈丘の家〉へ向かったのは、かねてから手にしたいと思っていた、両親の登録原票の写しを入手するためだった。申請は、登録原票が保管されている居住地の市町村役場の外国人登録課に本人が、また故人であるアボジの場合は、同居人だったオモニが申請手続しなければならない。物忘れが激しくなり、足腰も弱くなったオモニが市役所へいき、ひとりで申請できるはずもない。私が彼女の手を引いて役所へいき、彼女に代わって書類に記入し、署名だけはオモニがする。こうした作業が必要だったからだ。
 とはいえ、久しぶりに〈丘の家〉で一泊することは、息子としてささやかな親孝行ができることでもあった。オモニの独居を慰労し、食事をともにし、ひとつ屋根の下で眠ること。それだけのことだったが、法要へいくのに、愛知県春日井市に暮らす姉がオモニを迎えに〈丘の家〉までくる必要はなくなり、喜ばれもした。
 私が申請したのは、両親のすべての外国人登録原票。つまり、一九四七年から現在まで半世紀以上に渡るもの。可児市役所にあるのは最近のものだけで、古いものは東京の入国管理局がマイクロフィルムとDVDで電子保存して「三十年管理」している(今年二月一日、法務省に電話で確認)。市役所から入管局にコピーの要請をして、返送されてくるまで二週間ぐらいかかるとのことだった。
 三回忌から三週間ほどたってオモニから、市役所から受け取ってきたとの電話があった。「コピー代、千二百円払ったよ」というオモニに、
 「何が書いてあった。どう、面白い」と聞くと、
 「字が細かいでわからん。けんど、なんや写真がようけ(たくさん)貼ったるなあ」
 受渡しのために私は翌日、電話でオモニに説明したとおり、私の自宅の住所を大書した大型封筒を同封した手紙を、〈丘の家〉へ送った。
 日記を書くとか、生活記録を残すなどということとは無縁に生きてこざるをえなかったアボジとオモニにとって、外国人登録原票の記載事項は、唯一、文字として残された年譜ともいえる。これが、警察をはじめ日本の国家権力に監視され管理されるために、強制されたものであったとしても。
 そこに記された記述のすべては、私の人生にまっすぐにつながっている。

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 外国人登録原票は、外国人登録法(外登法)によって在日外国人に義務づけられた居住・身分関係の登録を記載したもの。現行の記載事項は、@登録番号(アルファベット記号と数字あわせて十桁)、A登録の年月日B氏名、C出生の年月日D男女の別E国籍F国籍の属する国における住所又は居所G出生地H職業I旅券番号J旅券発行の年月日K上陸許可の年月日L在留の資格(入管法に定める在留資格及び特別永住者として永住することができる資格)M在留期間(入管法に定める在留期間)N居住地O世帯主の氏名P世帯主との続柄Q家族構成(家族の氏名、出生の年月日、国籍及び世帯主との続柄)R日本にある父母及び配偶者の氏名、出生の年月日及び国籍S勤務所又は事務所の名称及び所在地――が記載され、登録者の写真が貼りつけてあり、署名も要求される。以上の記載事項に変更があれば、二週間以内に届けなければならない。罰則は厳しく、変更届を忘れたり、怠ったり、また外国人登録証の常時携帯義務に反すると、「懲役若しくは禁錮又は二十万円以下の罰金」に処せられる。
 かつてはここに、「左手ひとさしゆび」の指紋欄があった。指紋は生涯不変、万人不同。したがって、犯罪捜査の決め手となる。それを外国人登録に導入したのは、外国人=犯罪者という差別と偏見に基づいている。とくに日本政府がそれを持ち込もうとした時期は、朝鮮戦争のさなかの一九五二年四月で、ポツダム勅令だった旧外国人登録令が廃止され外国人登録法が公布、施行されたときだった。朝鮮戦争が勃発した一九五〇年十二月末の在日朝鮮人登録人員は五十四万四千九百三人で、全体の登録在日外国人五十九万八千六百九十六人の九一%を占めていた(法務省統計年報)。つまり、指紋登録制度の対象は、まさに朝鮮人だったのである。それは朝鮮半島の熱戦と、日本での反戦・反米運動に対応するための治安管理目的だった。
 しかし、日帝の植民地支配を経験した在日一世らは、民族的自尊心から指紋制度に強く反対した。そのため、日本政府は実施を先延ばしせざるをえなかった。ようやく一九五五年三月から実施に移されたが、順調に進んだわけではない。日本社会を覆う朝鮮人差別の壁に阻まれて、大きく注目されることはなかったが、毎年指紋押なつ拒否者がおり、抵抗は続いた。
 指紋押なつ拒否が、「外国人だから当然」とする差別の壁を越えて、ようやく社会的な関心を呼んだのは一九八〇年九月、東京の新宿区役所で在日一世の韓宗碩氏が拒否したことから始まる、押なつ拒否の連鎖だった。こうして在日朝鮮人を中心に、日本市民も呼応した廃止運動が高まり、一九九三年に在日朝鮮人などの特別永住者、一九九九年には非永住者についても指紋押なつが廃止され、在日外国人から指紋を採取し登録する制度は全廃された。ところが最近、これが復活されようとしている。
 「法務省はテロ対策の一環として、原則十六歳以上の外国人が入国する際、指紋や写真などの個人識別情報の提供を義務づける出入国管理及び難民認定法の改正案を今国会に提出する」(朝日新聞二月十六日付)。
 現段階では、旧植民地出身者の在日朝鮮人ら特別永住者は除外される、とされている。しかし、日本社会の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)バッシングを考えるなら、北朝鮮に帰国した肉親に会って戻った在日朝鮮人に対して指紋採取のハードルが下げられるのはいとも簡単だと、薄ら寒い想像力が働く。日本の首相や主要閣僚の思想と発言、権力に対する批判的言説空間の萎縮、サブカルチャーやネット空間を占拠している排外主義と右傾化の現状からして、あっという間に、指紋採取がすべての外国人に拡大され、いずれ日本国民にも強要される事態が訪れないとは限らないのである。
 こうして在日朝鮮人――外国人は、ほぼ完全にプライバシー=「居住関係及び身分関係を明確」にさせられ、日本政府――公安による「公正な管理」(カッコ内は外登法第一条の条文)をほしいままにされている。外登法第四条−三(登録原票の開示等)には、「4 国の機関又は地方公共団体は、法律の定める事務の遂行のため登録原票の記載を利用する必要があると認める場合においては、市町村の長に対し、登録原票の写し又は登録原票記載事項証明書の交付を請求することができる」とされている。つまり公安警察は、在日朝鮮人のほぼ完璧な個人情報を、いつでも、思いのままに入手し、彼らの目的のために利用できるのである。この事実は、繰り返し指摘され、片時も忘れられてはならないことである。

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 天皇制大日本帝国(日帝)の「朝鮮人戦時労働動員」――強制連行によって、いやおうなしに始まったアボジの在日暮らし。アボジは在日六十四年目の二〇〇三年十一月に後世(ごせ)へと旅立った。生涯最後の数日間、枕元にオモニ、兄姉らと付き添いながら、私は改めて、〈私という存在〉の血と骨、肉と思考の原形を、この世に送り出したアボジの人生行路の、ほとんど何も知ってはいないことに思い至った。やがてアボジが絶望的な昏睡状態に入ったとき、その思いは、取り返しのつかない大きな悔いとなって、私の心のなかに住みつくことになった。
 アボジの人生行路のある断面。私の記憶を脳中のある一点――そこに意識を集中すると、なぜか心がじんと熱くなるその場所からまさぐると、切れ切れにさまざまなアボジのイメージが浮かんで来る。浮かんでは来るのだが、それには、はっきりとした輪郭はない。炭鉱らしい場所の大きな風呂場、オモニとの諍(いさかい)で発した怒声と嫌悪をもよおす暴力、最初に勤めた製陶工場の釜場の熱さ、次に勤めた耐火煉瓦工場の埃(ほこり)。ホンダ・カブからヤマハ・メイトへと乗り継いだ通勤用バイクのエンジン音。一合五勺ほどの晩酌を終えて大きなげっぷをした後、必ずオモニに向けて「ご飯」――「ゴワン」と私には聞こえた――と命じた声音・・・・・・。だがそれらは、私が生まれた後の、それも、もの心ついてからのことでしかない。しかも、大学進学にともなって家を出て同居時代の幕を下ろした息子が記憶する、非歴史的で独断的な、父の八十三年の人生からすると、極めて短かい期間に属するものでしかない。
 さらに、このイメージは、錯誤に基づいている危険性さえある。
 その実例をここに記そう。これは、同時に、私が両親の外国人登録原票の写しの入手にこだわった理由も説明するはずである。

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 私は一九九九年十月、同年八月に外国人登録法が「改正」され、公安警察だけでなく、在日朝鮮人ら外国人も「市町村の長に対し、当該外国人に係る登録原票の写し又は登録原票に登録した事項に関する証明書の交付を請求することができる」(同法第四条の三−二・登録原票の開示等)ことになったので、さっそく自身の外国人登録原票の写しを請求し、入手した。
 申し込んで、市役所から連絡を受けてそれを手にするまで、二週間ほどかかっただろうか。B5版六枚、B4版二つ折り二枚の計八枚のコピーを受け取った。最初の二枚は現物の紙質の悪さと時間の経過で茶色く変色した原票の複写らしく、全体に濃いスクリーントーンがかかったような黒点に覆われ、記載事項がかろうじて読める一九五七年(昭和三十二年)十一月二十一日に新規登録されたもの(原票の記載事項の引用に関しては不本意ながら日本の元号も併記する)。私は同年十一月三日生まれだ。次の四枚は原票の書式が変り、一九六〇年(昭和三十五年)十一月二十一日から一九八九年(平成元年)までのもの。これも紙の変色がはじまっているようで、コピーの端には黒くスクリーントーンがかかっている。だが、それよりも汚らしいのは、四枚目と六枚目に採取された「左手ひとさしゆび」の指紋蘭が五か所、黒く塗りつぶされていることだった。
 原票によると、私は一九七二年(昭和四十七年)十一月四日、満十五歳と一日で、黒インク回転式で指紋採取されている。それから五回、一九八四年(昭和五十九年)三月三十一日まで、三年ごとに同じ方式で指紋押なつさせられ、六回目は無色の薬液による平面指紋方式で採取された。それは一九八九年(平成元年)の三月十三日と記録されている。
私は外国人登録の確認のたびに役場、区役所、市役所で指紋押なつをしてきた。思い起こせば、中学と高校のときには卑屈な感情を、大学生時代には屈辱感を抱き、そして、民族意識を形成しつつ光州民衆抗争を決定的な転機として民族運動に参与し始めた八〇年以後は、激しい怒りを抑えるのに苦労した。それは、外国人登録法で指紋押なつを強要されたすべての在日同胞に、少なからず共通する感情だろう。喜んで指紋押なつした同胞は一人もいなかったはずだ。しかし、私は押なつを拒否しなかった。一人暮らしのアパートで、外国人登録上の世帯主となり、自主的に押なつか、拒否かを判断できるようになっても、そうした。指紋を押さないことによって、自身はもとより、私が常勤(専従)していた在日韓国青年同盟(韓青)――光州虐殺の下手人、レーガン・中曽根と反ソ反北朝鮮の三角軍事同盟を形成していた全斗煥軍事独裁政権ともっとも先鋭に対じしていた――への被害(逮捕、自宅・事務室への家宅捜索、起訴、裁判)が予想されたからだ。すべての在日同胞は指紋押なつの廃止を願っていた。しかし、全員がただちに押なつ拒否の行動をとれない、複雑な、さまざまな判断があった。
 原票の写しには、私の顔写真が八枚見られる。十四歳から四十一歳まで、最初の三枚は眼鏡をかけておらず、まだ視力を維持していたことがわかる。少年から青年へ、青年から壮年へ、最後の一枚は額の後退が著しく、容貌が中年へとの激変しており、われながら、その老化が痛々しいほどだ。こうした変化も、だれかに把握されていたんだと、妙に感心してしまった。

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 さて、錯誤についてだった。それは私および家族の国籍変更にかかわる。
 私の最初の原票の国籍は「朝鮮」となっている。二枚目の原票の国籍蘭は、「朝鮮」が二重線で消され、「韓国」との判子が押されている。つまり、私の国籍は変更されたのである。
 国籍蘭に記された「朝鮮」という文字には、複雑な植民地支配と冷戦・分断にかかわる複雑な経緯がある。日帝植民地下の朝鮮に生まれたアボジ、日帝本国で生まれたオモニともに、いやおうなく「日本国籍」の朝鮮人だった。そして日帝敗亡後、日本を占領したGHQ(連合国総司令部)=米国は、在日朝鮮人は「一応日本国籍を保持する」とし、日本政府は「義務の面では日本人」「権利の面では外国人」との法的地位を付与して、民族学校の閉鎖を命じ、在日朝鮮人を「外国人とみなす」外国人登録令(一九四七年五月二日)を発布し、外国人登録を開始した。
 アボジとオモニの登録原票の写しの最初と次のページは、この外国人登録令に基づくものだ。両親は一九四七年(昭和二十二年)十月三十日に、そろって外国人登録している。その記述内容に関しては、後で少しふれることになる。ここで指摘したいのは、両親が外国人登録した時、朝鮮半島には独立国家が存在していなかった、という歴史的事実である。それどころか、この年には米ソ共同委員会が決裂(七月)し、米国によって朝鮮問題が国連に持ち込まれて(十一月)、米軍政地域=三十八度線以南の単独政権樹立が画策され、白凡・金九先生が以南単独政権樹立に反対を声明(十二月)するなど、米国の冷戦政策によって民族分断の危機が進行していた。
 しかし、「日本国籍を保持している」とされながら、「外国人だから登録せよ」と命じられた若い在日朝鮮人夫婦は、登録事項の一つとして国籍を申告しなければならなかった。だが、申告すべき独立国家がまだない。そこで二人は、親戚、知り合い、すべての同胞がそうしたように、まぎれもない朝鮮民族の一員として、国籍蘭に「朝鮮」と記した。
 冷戦激化の結果、翌年の八月十五日に大韓民国(韓国)、九月九日には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が国家の樹立を宣言した。そして五二年四月二十八日、日本政府が米国を中心にした連合国のあいだで締結したサンフランシスコ講和条約が発効して、在日朝鮮人の「日本国籍」は喪失を宣言された。民族分断と「日本国籍喪失」にともなって、在日朝鮮人は、南北のどちらを支持するのか、あるいはどちらも支持しない、との内心の自由が、国籍蘭への記載を強要されることで顕在化させられ、日本政府の察知するところとなった。
 大多数の在日朝鮮人の故郷は、韓国政府の支配地域にある。そこへ行くには、「朝鮮籍」を「韓国籍」にしなければならない。日本政府は、米国に追従して露骨に韓国を支持し、「朝鮮籍」と「韓国籍」との間に不当な差別を設けて、国籍変更を誘導した。その最たるものが、韓国を「朝鮮半島における唯一の合法政府」として一九六五年に締結された韓日条約にともなう「協定永住権」の付与だった。韓国政府を「支持」するとの意思表示として、国籍を韓国に変えれば、「永住権」――といっても退去強制条項つきで、それも軍事独裁政権が支配する韓国へ強制送還される――を審査してあたえるというものだ。
 協定永住の申請=朝鮮から韓国への国籍書き換えをめぐって、これを推進する在日本大韓民国居留民団(現在、在日本大韓民国民団、民団)と、阻止しようとする在日本朝鮮人総連合会(総連)の幹部が、大阪の生野区役所などで激突する事態も発生した。このように、在日朝鮮人にとってもっとも切実な居住権をテコに、冷戦と分断状況が、在日社会へと、最悪の形で持ち込まれた。
 わが家とその周辺ではどうだったか。私の〈生まれ故郷〉は岐阜県可児郡可児町(現在は可児市)で、民団と総連の支部どころか分会さえない土地だった。協定永住権の申請は、一九六六年一月十七日の韓日法的地位協定発効から始まり、申請期間は五年とされ、七一年一月十六日が締め切り日だった。この締め切りが迫ったころ、家族内で紛争が起きた。
 当時、大学生だった長兄は、協定永住権の申請に強く反対した。日本の学生反乱がいまだにその余熱を保っていた時期だった。彼は在籍する大学の、新左翼系組織が掌握する自治会で活動していた。「朴軍事独裁と日帝の野合、政治取引に反対だ」と主張した。そして、協定永住を取得しても、実質的に何も変らないとも説明した。
 長兄は当時、サンフランシスコ講和条約締結以前の一九四九年五月十八日生まれで、在留資格は「法律一二六号」だった。

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 「法律一二六号」とは何か。またややこしい説明が必要になるのだが、在日朝鮮人とは、そうした説明を必要とする、帝国主義―植民地主義が生み出した、極めて複雑な存在なのだ。当事者だった在日同胞もこれを忘れてしまっているかも知れない。だが重要なことなので、しばらくお付き合い願いたい。
 「法律一二六号」は、日帝が朝鮮植民地支配した事実を認定して日本政府がしぶしぶ制定した、数少ない法律のひとつである。先述したように、講和条約の発効にともなって、「日本国籍」の喪失を宣言された在日朝鮮人は、一般外国人と同じように、出入国管理法(入管法)――外国人の出入国管理と違反者、「好ましからざる外国人」の強制退去の根拠となる――の適用を受けることになった。しかし、自らの意思で、自国のパスポートを持って、日本政府のビザを得て入国する一般外国人と、日帝植民地支配の結果、在日することになった朝鮮人とでは、その歴史的背景と現実がまったく異なる。この一般外国人と在日朝鮮人の間のギャップを埋めるための苦肉の策が「法律一二六号」だった。この名前は一九五二年に制定された百二十六番目の法律という意味で、正式名称は「ポツダム宣言の受託に伴い発する命令に関する件に基づく外務省関係諸命令の措置に関する法律」である。同法は在日朝鮮人のための特別規定を次のように設けた。「日本国政府との平和条約の規定に基づき同条約の最初の効力発生の日において日本の国籍を離脱するもので、昭和二十年九月二日(日本が降伏文書に調印した日)以前からこの法律施行の日まで引き続き本邦に在留するもの(昭和二十年九月三日からこの法律施行の日まで本邦で出生したその子を含む)は、出入国管理令第二十二条二の第一項の規定(永住許可規定)にかかわらず、別に法律に定めるところによりその者の在留資格及び在留期間が決定される間、引き続き在留資格を有することなく本邦に在留することができる」。つまり、在日朝鮮人は「当分の間、在留期間」の定めなく在留できる、というもので、在留資格ならぬ「在留資格」が「法律一二六号」で、それは植民地支配という否定しがたい事実に基づく、消極的永住権の付与でもあった(この段落の記述は、金昌宣『加害と被害の論理』朝鮮青年社、一九九二年によって、筆者の必要に応じて表現を改めた)。
 ちなみに、日本政府が難民条約の批准にともなって入管法を改正して「出入国管理及び難民認定法」を成立させ、それとの整合性をもたすために「法律一二六号」と「特定在留」(法一二六号の子)、「特別在留」(法一二六の孫)の在日朝鮮人(大多数が朝鮮籍)に、「特例永住」という永住権を認めたのは、ようやく一九八一年からだ。また、その十年後の九一年五月に「出入国管理特別法」(日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者などの出入国管理に関する特別法)が成立して、「協定永住」と「特例永住」をあわせて「特別永住」という在留資格が生まれた。日本政府が在日同胞を政治的に選別し、抑圧し、差別の道具として悪用してきた居住権=在留資格が、日帝の敗亡後四十六年目にして、やっと統一された。この長い歳月は、日本政府が決して反省も清算もしていない、生き続ける植民地主義の現存を物語っている。

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 長兄の「法律一二六号」という在留資格は、日本政府にとって不本意ながら、実質的には永住権を認めるものだった。私はというと当時、「特定在留」だったから、在留資格は不安定で、三年ごとの外国人登録の確認申請にあわせて、在留期間を更新確認するようになっていた。兄の反対の背景には、こうした在留資格の違いも存在していたともいえる。
 また、姉は講和条約前の一九五二年四月二十三日生まれで、「法律一二六号」対象者だが、外国人登録申請が講和条約発効後になったせいなのか、なぜか特定在留になっていたようだ。
 つまり、六人家族のうち、在留資格「法一二六」が父・母・長兄で、姉・次兄・私は「特定在留」だった。アボジの主張としては、家族の在留資格が分かれており、小さい方の子どもたちの在留資格が不安定だから、協定永住を申請すべきだ、というものだった――と思っていた。
 私がはっきりと記憶している情景がある。北陸地方の大学から久しぶりに長兄が帰郷し、それを喜んだオモニが、いつもより豪勢なおかずを用意した夕食の場面。協定永住申請の書類を出してきて、帰るまでに書いておけと言ったアボジに、長兄が強い反対を表明した。楽しい食事の雰囲気は吹き飛んだ。険悪な表情で二人が言葉をやり取りし、オモニはうろたえる。そして激高したアボジが大声をあげた。
 「家族がばらばらになってもええんか」(「かじょくがぱらばらになってもええんか」と私には聞こえた)
 同じ町内のオモニの実家は、ハラボジ(外祖父)の強い意向――「ええか、おれらは朝鮮やぞ。韓国やないぞ」――によって、協定永住申請は、何ら議論の対象にならなかった。かえって叔父たちからすれば、申請締め切り直前にざわざわしていたわが家、つまりアボジに対して、いまさら何を大騒ぎしている、という冷ややかな反応を示していたことを、かすかに思い出す。母の実家はいわゆる総連系ではなく、同胞組織との関係は一切なかったのだが・・・・・・。
 結局わが家は、長兄を除いて協定永住を申請し、許可された。この家族の紛争は、自我を形成し始めていた少年の私に、深い印象を残した。民族の分断と、家族の分岐の始まりが、初めて具体的に暮らしのなかに入り込んできたからだった。さらに、協定永住許可の同じ年の秋、初めて指紋押なつを強制されたこともあいまっているだろう。この深い印象が、後々までの錯誤を私に植えつけたのだった。
私は高校に入ってから、これまで書いてきたような在日朝鮮人の法的地位の歴史と現実を、書物によって少しずつ知り始めた。そして中学一年のときの協定永住をめぐるアボジと長兄の印象深い口論などから総合して、私および家族が、協定永住申請に合わせて国籍を「朝鮮」から「韓国」に変えたと思い込んだ。それは、熱心な民団の活動家でもなく、関係が深いわけでもなかったアボジおよびわが家の同胞とのつきあいからいって、当然の判断だったと思う。
 ところが、である。取り寄せた私の登録原票の写しの三枚目の「変更登録欄」の左二段目に「昭和37・1・8」「法9の1の申請(2)の欄を韓国とする」という記述を見出したのである。国籍変更した根拠として「大韓民国国民登録証による」という記述も見られる。つまり、私は協定永住許可の十年も前に、また韓日条約締結よりさらに三年前に、「朝鮮籍」から「韓国籍」へと国籍変更がなされていたのである。後にアボジ、オモニの原票で確かめると、二人も同日に国籍変更がなされている。しかし、私が長兄の外国人登録証を見せてもらった時に格別印象深く記憶した、国籍「朝鮮」、在留資格「法126の1」は間違いない。
 その後さらにわかったことがある。アボジと家族の協定永住権申請と許可には、時間差があったのである。
 アボジの三回忌の法要で〈丘の家〉=実家に一泊したとき、納戸に放置してある箪笥(たんす)の引出しから、アボジが保存してい古い書類をいくつか手に入れた。半世紀も前の借用書や、〈元の家〉を入手した時に支払ったお金の領収書といっしょに、「永住許可書」が五枚出てきた。もちろんアボジ、オモニ、姉、次兄、私のものだ。文面は「日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定の実施に伴う出入国管理特別法第一条第二項に基づき本邦で永住することを許可する」となっている。書面には上から許可番号欄、四角の枠内に題目、氏名、性別、生年月日、本籍とあり、先の文面に続いて、「昭和○年○月○日」と空白つきの許可年月日記入欄、そして法務大臣と印刷され、「前尾繁三郎」のゴム印と朱肉印が押され、枠外の最下段に外国人登録番号記入欄がある。
 それで明らかになったのは、アボジが家族に半年も先立って協定永住申請をして、許可されていたことだ。彼は一九七一年七月二十九日に、許可番号「234726」で協定永住を許可された。オモニを始め私たちは、一九七二年二月十四日に、許可番号「282037」から連番で「282040」(これが私の番号だ)までとなっている。
 また、国籍変更の根拠とされた父母の「大韓民国国民登録証」――檀紀四二九四年(一九六一年)十二月二十三日、大韓民国駐日代表部・大阪事務所のなつ印――も出てきた。

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 二つの、私がまったく知らなかった事実。これは何を物語るのか。ひとつは、私の印象深い鮮烈な記憶の意味が、「朝鮮」から「韓国」への国籍変更時点の錯誤のうえに成り立っていたため、大きく異なってくるということである。当時の朴正煕軍事独裁政権と日本政府が、「協定永住」をテコにして在日同胞を国籍変更へとかりたて、在日社会では民団が大きく「組織力」を伸ばしたことは周知のとおりである。しかし、アボジはこうした「一般同胞」の動向とは異なり、より能動的に「韓国」を国籍として選択したことになる。したがって、長兄との「論争」は、もう少しイデオロギッシュな様相を呈していたのかも知れない。また、家族に先立つ協定永住の申請・許可も、アボジの政治的な指向性と、これがそれより大きな要因だと思われるが、在日一世として、抑えがたい望郷の念がそうさせたのではないか、と想像できる。海の向こうの朝鮮にある生まれ故郷への思い。それは二世のオモニ、三世で日本に同化されていた子どもたちには、計りがたいほど強かったのだろう。「協定永住」許可者は、再入国申請で「できる限り好意的に取り計らう」とし、近親者の日本訪問にも「できる限り好意的な配慮を払う」とされた。アボジが積極的に「協定永住」を取得しようとした動機は、まさにここにあったのだ。
 それはアボジの登録原票の写しの記述に明らかだった。一九六五年(昭和四十年)一月二十八日の蘭に「昭40.1.16伊丹空港より再入国許可を得て出国」とある。韓日国交正常化の前に、アボジは韓国へ帰っている。このとき私は小学一年生。もの心はついていたはずだ。しかし、これは私の記憶の片隅にさえ存在していなかった。アボジの写しを見るまでは、〈あったのに、なかった事実〉だった。続く同年二月二十六日の蘭の記述は「法12条の2の3項の申請受理。同日証明書返還」となっている。これは旧外登法十二条の二の規定(再入国許可を受けて出国する者の登録証明書)に関するものだ。アボジは伊丹空港の入国審査官に外登証を提出しなければならず、そうした。入国審査官はアボジの外登証を出国前の居住地の役場=可児町役場に送付した。故郷訪問を終えて日本へ戻ったアボジは、再入国した日から十四日以内の二月二十六日に、可児町長に登録証の返還を請求し、可児町長は同日、アボジに登録証を返還した――ということである。こうした記述から推察するに、アボジは一週間から十日ほど韓国に滞在したことになる。何と煩雑な手続きが必要だったのだろうか。ため息が出る。
 そうだ、国籍変更は望郷やみがたい思いから、協定永住の取得は出入国の簡便化への期待からだった。きっとそうだろう。この望郷の念は、一世のアボジと、二世以下の私たち家族が、絶対的に分かち持つことができなかった感情である。すると、アボジと長兄の「論争」は、在日世代間の葛藤であり、望郷の念に燃えてぐらぐらと煮え立つ熱湯に、冷徹な政治判断とイデオロギーの氷を投げ込む消耗戦でしかなかった、ともいえるのである。こうして、感情の水位はあがり続け、あふれ出し、結局、収拾が取れなくなるほかなかった。
 もうひとつある。このように、私が近年までまったく知らなかった過去があった。そうしたことは、一般的になくはないことだろう。しかし、私の場合は、本人が知らず、錯誤していた事実を、日本政府=国家権力はきっちりと把握し、記録していたという特異性がある。つまり、国籍変更手続きを主導したアボジは逝き、そうした法律関係に無知でもあり、無頓着でもあるオモニがそんな話を私にするはずもない。また、協定永住許可後の満十五歳と一日で手にした「外国人登録証」(手帳版)に、国籍変更がいつだったかを示す記述はなかった。つまり、外国人登録原票の写しを入手しなければ、私自身が決して知りえなかった過去があった。私の存在にかかわる、決して軽くはない「朝鮮」から「韓国」への国籍変更の過去が、日本政府に〈横取りされていた〉のである。

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私 がアボジとオモニの外国人登録原票の写しを入手しなければ、と思ったのは、これ以外にも〈横取りされた過去〉があってはならないし、もしも〈横取りされた過去〉があるのなら、それを取り戻さなければならない、と考えたからだった。
 〈横取りされた過去〉を取り戻すことは、決して過去を懐かしもうということではない。
 在日朝鮮人の不安定な在留権、民族差別に加え、政治的な差別もほしいままにされ、治安管理、抑圧、弾圧など、植民地支配の反省と過去清算がないまま放置されてきた法的地位は、闘いによって、本質的に残存し続ける治安管理問題はありながらも、少しずつ改善されてきた。しかし、現状を見るとき、その憤怒を呼び起こす過去を、単なる過去として忘れ去ることはとてもできない。むしろ、その呪うべき過去が、未来としてわれわれに迫っていることがひしひしと実感できる。北朝鮮バッシングなど、その最たるものだ。したがって、私たちは、未来に、この誤った過去をくり返さないため、〈横取りされた過去〉を取り戻し、過去をしっかりと自らのものとしておかなければならないのである。

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 最後に提案します。在日同胞の読者の方々は、ぜひ自分の外国人登録原票の写しを入手してください。そしてもし、ハラボジ、ハルモニ、アボジ、オモニがご存命であるなら、一緒に役所に行ってくださるようお願いして、その方々の登録原票の写しも手に入れてください。きっと、私のように〈横取りされた過去〉が見つかるでしょう。
 本稿では、私のアボジとオモニの外国人登録原票の写しの記述を詳しく整理し、また、解放前のアボジの戸籍抄本の記述も踏まえた報告を書く予定でしたが、次の機会に譲ることにします。