新井将敬代議士の孤独な自死

―他者の価値観と方法、その受容と裏切り―

黄 英 治

  死んだものはもう帰ってこない。

  生きてるものは生きてることしか語らない。

                  (「永久革命者の悲哀」より)

 

はじめに

 

 新井将敬代議士が自死して、2ヶ月がたった。在日韓国人二世という出自を否定し、その激しい自己否定のエネルギーを推進力に、日本社会のエリート階段を上りつめようとして挫折。それでもなんとか再起を期そうとしていた矢先、株の不正取引が暴露され、証券取引法違反容疑者として逮捕が目前に迫った2月19日、自死という手段でこの無明世界からすり抜けていった新井将敬氏。

 この日本社会では特異な彼の出自と経歴、そして自死という衝撃的な結末のためか、この長くもない2ヶ月の間、彼の生と死に関してさまざまな言説が飛び交った。一方、3月25日には、彼に利益提供していた日興証券事件の初公判が開かれた。その被告席には、「弁明できぬ永遠の欠席者」に全責任を転嫁しようとする自己弁護者たちだけが座った。そして29日には、彼の選挙区の補欠選挙がおこなわれた。補欠選挙には、新井氏の妻が「主人の潔白を訴える」と立候補を表明したが、結局は断念するという、本番以上に緊迫感のある幕間劇をへて、東京の国政選挙では戦後最低の投票率で、新井氏と同じ自民党の候補者が当選した。このように、彼が「存在したこと」を彼方に押しやるような出来事も、この日々のなかで積み重ねられている。

 新井将敬氏に関するさまざまな言説、あるいは、時の流れのなかで既成事実が積み上げられながら、彼の自死の意味が忘れさられていくこと。そのどちらに対しても私は、靴に雨水がしみこんできたときのような違和感を押さえられない。「それはちがうだろう」という思いがつのる。なぜ彼は「あのように生き、そして自死した」のか、それをはっきりと自己確認したい想いをずっと抑えきれないできた。そのためにこの小文は、いくぶん私的な色あいを帯びるかもしれない。しかし、こだわりがあった。なぜなら彼が在日韓国人だからであり、それも私とは対局の座標で生き、そして自死した在日韓国人だからである。

 新井氏とは対局の座標で生きている私は、祖国と民族にこだわる。祖国と民族を分断の苦痛から解放することが、私をふくめた在日同胞の生き方と暮らしをよくしていくための必要条件だと考える(それはなぜなのかの詳論は、本稿の目的ではないので別の機会にゆずるが、本稿にもにじみでているだろう)。だから、出自をかくして生活している地域の同胞青年をさがして会いにいき、彼らが民族のマダン=韓青に集うようにする。そこで祖国と民族と在日同胞と自分を結びつける知識と考え方をつたえ、歴史的現在・歴史的現実に生きている自分を、もう一度見つけ出せるようにする。そうして祖国・民族とともに生きる生き方を共有し、一緒に実践する仲間をつくる活動をしている。

 私がいまの自分になるまでには、それなりの過程があった。それは新井氏が日本に帰化して、「日本人」として生きることを決意する心情を、かなりの部分共有している。この私の視線で、新井将敬代議士の孤独な自死を記述し、それにまつわるまとはずれな言説にも少しふれてみる。

 

他者の支配的価値観と方法

 

 新井氏自身も生前語ったように、「出自は自分で選べない」。しかし、人は生まれ落ちたその時間と場所から生をはじめなければならない。1948年に新井氏が、1957年に私が生まれ落ちたこの日本社会は、韓国人(朝鮮人)の両親のもとに生まれた子どもたちにとっては、過酷な差別社会だった。それはいまも変わらない。ここには、「やい、朝鮮人!」という発言や意識がまん延している。いうまでもなく、「やい、朝鮮人!」に類する発言には、民族差別が込められている。差別一般は、「その社会で優位を占める属性を持たない人々(集団)が、優位な属性を持たないことを標識にして、排除されたり、不利益をこうむったりして、その人間的尊厳が損なわれること」と定義できよう。

 「やい、朝鮮人!」という発言は、日本の朝鮮植民地支配がきちんと清算されていないだけでなく、その後も分断と戦後処理が正しくなされず、不平等で非正常な韓日(朝日)関係が維持されているために、「劣った朝鮮人をすぐれた日本人が導く」などという、植民地支配を合理化し正当化してきた差別意識が、いまだに日本人一般の歪んだ価値観として残存しており、それがちょっとしたきっかけで表面化するときに発せられる。そればかりでなく、日本の閣僚がしばしば意図的にくりかえす、「日本は朝鮮でよいこともした」という発言や「自由主義史観」なるものは、民族差別意識が残存どころか確固として存在しており、なおかつそれを維持しようとする執拗な意図が存在していることをも示している。

 建前においては、植民地支配を正当化する学校教育は否定されているはずだ。しかし、日本人の子どもが韓国人(朝鮮人)の子どもにむかって、いまだに切り札のようにその言葉を使う事実が、それを端的に表現している。「おまえは日本人ではない」、だから「悪い、汚い、臭い、劣っている」となる。絶対にそんなことはないのだが、差別に理由などいらない。

日本社会では当然、日本人という優位な集団の価値観が圧倒的な影響力を持つ。したがって、民族教育を受けられなかったり、受けなかった在日韓国人(朝鮮人)の子どもたちは、この社会の一員になっていく過程で、いや応なく自分たちを低く位置づけたり、差別したりするような価値観をふくめ、支配的な価値観や方法を内面化していくようになる。韓国人(朝鮮人)の子どもに内面化された韓国人(朝鮮人)への、つまり自分自身への差別は、自己嫌悪、低い自尊心、低い自己評価、同類のものへの軽蔑などに転化して、自分で劣位の位置を選んでしまうことになる。だから、「朝鮮人!」という言葉が、在日韓国人プロレスラーの長州力が言うように、「力の強い人間の手足をもぐような、すごいインパクトのある言葉」になってしまうのである。私もそれを体験した。

 

他者の価値観と方法の受容

 

 今から約35年前、高度成長によって大きくなったパイの分け前が、ようやく日本人の庶民に届くようになり、彼らの生活をゆたかにし始めていたが、大部分の在日韓国人家庭は、まだそこまでの余裕を得てはいなかった。このころすでに新井家は裕福で、新井氏自身は大阪の名門進学校である府立北野高校に進学した。このとき、新井家は一家で帰化をする。

 「韓国人で、お金持ちで、そのうえ東大に入りそうなお兄ちゃんがいる家」。こんな家は、当時の私の生活範囲、つまり近所や親戚関係にはなかった。それも、ずっと後までも。非常に恵まれていたと言っていい、新井家と新井氏にとって、帰化という家族の決断は、どのような動機のもとになされたのだろうか。新井氏の父、義男氏は『毎日新聞』の取材に答えて、「私も事業をやっているといろいろなハンディがあるわけでしょ。日本に永住するわけだし、一家で帰化したらどうかと相談したら、将敬もそうだね、いいよと賛成してくれた」と動機を語っている。つまり、銀行融資など、韓国籍のためにこうむる事業上のハンディが、動機の大きな部分を占めていた。これはよく理解できる実際的な問題である。

 といって、「日本に永住するわけだし」という動機が、前の動機より小さいことはなかったと思う。この言葉はけっして肯定的な声音で発せられたわけではなく、あきらめの口調で話されたことだろう。「いくら裕福でも、いくら頭がよくても、日本では、日本人でなければだめだ」という思いが、この言葉の背景にはある。民族差別の激しさがこの言葉を言わしめたのだ。そして、さきに言及したように、日本社会の激しい民族差別の現実が、ほとんどの在日韓国人の内面に日本社会の支配的な価値観と方法を植えつけ、それの受容を強制していた。

 これは在日韓国人にとっては、日本人、日本社会という他者の価値観と方法である。しかし、新井家と新井氏は、現在とはくらべものにならないほど激しかった同胞社会の帰化者にたいする疎外を覚悟して、強制された受容から、さらに一歩踏み出す積極的受容、つまり帰化をするのである。民族にたいする親近感が父の世代より希薄な二世であり、そのうえ、裕福であり優秀でもあったがゆえに、新井氏の日本社会の支配的な価値観と方法にたいする受容度は、彼の父親以上に高かったのではないだろうか。

 「日本に生まれ、日本に育ち、日本人と何も変わらないのに差別される」こと、ましてや、韓国人は日本人と人種的特徴がほぼ一致しているのだから、それを不条理に思うことは自然のことかもしれない。ところが、「それなのになぜ差別されるのか」という原因の究明と、「差別はあってはならない」という価値判断によって、この不条理感の吟味がなされないなら、差別の現実を受容するだけにとどまり、そこからの逃避だけが課題となる。したがって、帰化して日本国籍を取得すればよいことになってしまう。

 だが、ある在日韓国人一家が、またはひとりの在日韓国人が差別から逃走しても、朝鮮民族にたいする差別は残り、なくならない。それどころか、ごく少数の意識的な帰化者を除いて、差別の存在を許容し、差別をする側にすべりこんでいってしまう危険性がある。これが在日韓国人の帰化の特異な現実である。成熟した市民社会における権利の獲得次元では割り切れない、この社会の現実、および日本と朝鮮半島との歴史的関係が介在しているのだ。

 さて、帰化によって取得する「日本国籍の事実上の効用」は、差別の武器になっていた「戸籍」を、「日本社会でのパスポートと化する」ことである。つまり、今度は「自らの正体を秘匿し、日本人の差別と偏見から逃れうる『隠れみの』」にできる。新井氏は、日本社会、他者の支配的な価値観と方法を積極的に受容して、「日本社会でのパスポート」を手に入れ、いよいよこの社会のエリートコースへの本格的な挑戦をはじめるのである。

 

他者の価値観と方法の実践

 

 在日同胞で、兄弟・親戚、あるいは知己に帰化した人がいない、という人は皆無だろう。それは、1952年から1996年末までの累計帰化者数が、20万4,620人にのぼることからも推察できる。私の場合も、兄弟や親戚に帰化者がいる。彼らの帰化は、日本人との婚姻の増大という、新井家が帰化したときとは異なる在日同胞の状況を反映していると同時に、依然として「生活上の利便」や「民族差別からの逃避」を動機としている。その意味で、日本社会の支配的な価値観と方法を受容したうえでの決定である。ただ彼らのほとんどは、「日本社会でのパスポート」を得るという目的を達成した後、それを積極的に活用して、日本社会での上昇志向を満たそうとしているわけではない。満たそうにも、そうできない能力の問題も、もちろんあるが。

 さて、どんな人間でも上昇志向はもっている。ただそれを達成するには、まずは学校で、次には職場での厳しい競争に勝ちぬかなければならない。そして、それをある程度勝ちぬいた者たちにとって、その上昇志向を最も手っとり早く達成する手だては、その社会の支配的な価値観と方法を徹底して受容することに加え、しっかりと実践することだ。

 新井氏の生きざまが示す人一倍強烈な上昇志向には、在日韓国人であった自己にたいする嫌悪や、自分自身の境遇をふくめた同胞にたいする軽蔑が存在していなかったとは言えないだろう。だから「日本人より立派な日本人になろうとした」新井氏は、学歴社会での一次的競争に勝ちぬくと、日本社会の支配的な価値観と方法の実践を始める。

 新井氏の帰化後の経過をたどろう。府立北野高校から一浪して東大理科T類に入学し、経済学部に転部。おりからの全共闘運動に参加した後、運動から手を引き大学を卒業する。新日鉄でサラリーマン生活を送り、73年大蔵省にキャリア(国家公務員試験T種合格者で本庁採用者)として入省。入省4年目の76年、厚生省に出向し、そこで当時厚相だった渡辺美智雄氏(後に自民党副総裁)と出会う。渡辺氏が大蔵大臣になったときに蔵相秘書官に抜てきされ、政界への道に乗り出し、そして86年、ついに念願の自民党代議士になった。

 その後、92年には、金丸信・元自民党副総裁らの金権政治を鋭く指弾する「若手改革派」の旗手として、多数のテレビ番組に出演し世論を味方に攻勢をかける。こうして新井将敬の名前が広く知られるようになった。これが彼の絶頂期だった。

 しかし、こうした「改革派」という表の顔の裏側で新井氏は、日本政界の旧態依然とした体質、つまり、この社会の支配的な価値観と方法である、政・官・財の癒着構造を利用した選挙用の裏金作りに精を出していた。自民党から衆院選に初出馬して落選した83年12月以降、渡辺氏に紹介された日興証券幹部に対して、渡辺副総理の秘書であり、大蔵省キャリアという経歴と政界進出を準備していることを材料に、株取引での利益供与を要求し二億円以上の利益提供を受けた。また、代議士になった86年7月以降は、本人口座のほかに、他人の名前を借りる借名口座を開設して、利益提供を受けていたことも明らかになっている。今回の自殺の引き金になったのは、この借名口座の開設と利益提供の要求が明るみに出たためだった。

 さて、「改革派のスター」として一時もてはやされた新井氏も、政界再編の荒波のなかで変転を繰り返すことになる。94年4月に自民党を離党して自由党を結党、年末の新進党結成に参加したが96年6月に離党、そして97年8月、結局は自民党に復党している。その復党も、かつての同志がいる旧渡辺派は引き受けを拒み、勢力拡大を目指していた旧三塚派が数合わせ要員として引き受けてくれたにすぎない、みじめなものだった。三塚派では派閥の長や実力者とは個人的なつながりがなく、孤立した存在だったという。

 

他者の価値観と方法からの裏切り

 

 このように新井氏が、基本的には日本社会の支配的な価値観と方法にもとづく裏金作りに精を出し、その一方では売名のために、金権打破や政・官・財の癒着を糾弾する「改革派」の仮面で強烈な上昇志向を満たそうとしても、常に彼の前に立ちはだかったのは、皮肉なことに、日本社会の支配的な価値観と方法だった。彼が受け入れ、実践したこの社会の支配的価値観と方法が、新井将敬を裏切り続けた。

 新井氏が83年12月の総選挙に、自民党候補として旧東京二区(東京大田区)から出馬する準備をしていたその年の5月、彼の政治広報ポスター3千枚のすべてに、「(昭和)41年、北朝鮮より帰化」という真っ黒いシールが貼られた。貼ったのは、当時選挙区が競合した同じ自民党の石原慎太郎元代議士の秘書だった。彼は、その秘書を器物損壊罪で告訴した。これに対して石原事務所側は、選挙妨害については非を認めながらも、「他国籍だった者が代議士になることについては、若干の問題があると思っている。」と、むしろ開き直りさえしたのである。その後も、この「他国籍者だった者が、決定的な瞬間に日本の国益を優先できるの」か、という問いかけは、同僚議員たちから執拗にくり返されることになる。これにたいして彼は、「日本を愛している、日本のために」としか言葉を返すことができない。しかし、熱烈な片想いも、いずれは終わりが来るものだ。

 彼は、みじめに自民党に戻ってきた。自民党でなければ、議員バッチを胸に付け続けることができないからだった。その孤立とみじめさに追い討ちをかけるように、連続する金融不祥事の政界関連者として標的にされ、97年12月、日興証券の利益提供が『読売新聞』にスクープされた。

 「みんながやっていることなのに、自分だけがやり玉にあげられた。何故だ!」これが新井氏の本音であり、多くの政治家たちの彼にたいする水面下での同情だ。しかし、この本音と同情は世間では通用しない。昨年暮から年明けにかけて、自民党の執行部は新井氏に自主的離党を求めた。自民党のなかに、出戻りの彼を擁護しようとする者はいない。『毎日新聞』には、「新井氏は自民党のある幹部に、自分が韓国籍から日本国籍を取得した事実を引き合いに出しながら、自分の株取引だけが問題になるのは『民族差別ではないか』と述べた」と記している。その記事は、「事件と無関係な話を持ち出した新井氏への戸惑い…」と続けているが、民族差別と日興証券への利益提供強要事件のスクープとの間に、関係があったのかどうかは、そう発言した彼自身、深く追求しようとは思っていなかっただろう。もし関係があったとしても、それは公式的には、絶対に、否定されるからだ。

 ただ彼は、言わずにはいられなかったのだ。帰化する前も、帰化した後も、東大に入り大蔵省のキャリアになったときも、落選したときも、代議士になった後も、「改革派」のスターだったときも、自民党に出戻りした時にも、常に彼を駆り立て、息苦しさを感じさせてきた、日本社会の韓国人にたいする支配的な価値観と方法。いつも彼に立ちはだかってきた、そして、乗り越ようとし、乗り越えられなかった壁…民族差別。つまり、民族差別に対する存在認定とささやかな抵抗、そして、あきらめのため息が、この発言である。

 新井氏は、彼を裏切り続けてきた壁そのものとは、ついに正面から闘うことをしなかった。代議士となり、ある程度の権力を行使できるようになったときにも。そのためだったのか、その壁のせいなのか、彼は多くの友人たちを失ってきた。

 

死者と生者

 

 『朝日新聞』編集委員の早野透氏は、新井氏の自死を「政治家の宿業」とし、「幼時から国籍差別を意識させられ、東大紛争のなかで『どうせ一度死んだ命』と思い定め」、「言葉と隠された現実が激しくかい離する、屈折したプライドというべきか、新井氏はそれを『死』で埋めたとみるほかない。」、「たぶん新井氏は一人の小さな世界に不相応な大きなロマンを投影して、『死』を選んでしまったのかもしれない。」と書いた。

 しかし、早野氏は、この日本社会のなかで差別に直面し、それに何らかの形で抵抗しようとした被差別者の、どうにも説明しようのない思いは理解できなかったようだ。新井氏は政治家になる以前に、すでに被差別者だった。彼は、被差別者であったがゆえに政治家を目指した。ここに彼の自死の深淵がある。彼は決して、「政治家の宿業」で自死したのではない。彼は、「運命としての在日韓国人」として、無念さとともに、孤独に自死したのである。

 新井氏のオモニが、自宅を取り囲む報道陣に向けて、「あんたら人殺しや。みんなやってることなのに、あの子だけやり玉にあげて」と泣きながら抗議した。これをテレビでみた久田恵氏は、「家族までその内実を知っていたとはなんという茶番だろうか。母親は『王様は裸だ』と自らの息子を指さしてしまったのだ」と嘲笑した。しかし、兵庫県宝塚市に住んでいるこのオモニが、新井氏の株取引の内実を知っているわけがないではないか。ほとんどの政治家が不法な株取引をやっているのは、国民すべてが「知っている」ことだ。それを棚にあげて、久田氏はこのオモニを嘲笑する。だがオモニが言いたかったのは、自慢の息子を自殺に追い込んだのは、自身の人生で骨身にしみている民族差別だということである。それを告発し、抗議したのだ、「あの子だけやり玉にあげて」と。

 この告発と抗議が、新井氏が「自民党のある幹部」にもらした発言と一致することに、私はどうしようもないやりきれなさを覚える。死んでいった者も、生き残った家族も、民族差別という、忘れていたかった、重く、そして鈍く光るかたまりを飲み込まされたのである。しかし、なぜ死んでしまったのか。彼は、妻と子どもたちのためだけにでも、生きているべきだった。

 新井氏は、「運命としての在日韓国人」として、日本社会の、日本人の、つまり他者の支配的価値観と方法を受容し、実践し、そして裏切られて自死した、と私は思う。しかし、実はそうではないのかもしれない。

だが、生きている者は、死者に向きあったとき、死んだ者の生と死にいろんな意味を見出し、自分の生き方を見つめ直す自由はある。新井氏とは対局の座標で生きている私は、この社会の支配的価値観と方法、つまり、「世間一般の通念における価値を前提にするのではなく、何が本当の善なのか、幸福なのか、この人生の根底をなすものとして、何を本当に自分は求めているのか、ということについて、型通りの決まりきった通俗な考え方から人間を解放してやるまでは、本当の解放というものはない」ということを肝に銘じて、民族運動を続けていこうと、自分の生き方を見つめ直したのである。(4月23日脱稿 ファン・ヨンチ 在日韓国青年同盟) 


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