宇治天体精機Histry


1968年製作16cm/F8反射赤道儀 1970年製作20cm/F9反射赤道儀
25cmカセグレン

  望遠鏡メーカーとしての宇治天体精機を設立して、早いもので満20(1997年)に向かえようとしています。一つの区切りとして、この20年を振りかえりつつ設立前の経緯をお話しましょう。
 小さいときから物を作ることが好きであった私が、最初に星と関係の事柄と出会ったのは昭和38年、小学5年生の時、学研から出版されていた「科学」という月刊誌の付録として、「天体望遠鏡レンズセット」なるものがついていました。対物、接眼レンズだけのものでしたが、作り方がボール紙を丸くして、レンズを中に入れただけの、簡単なものでしたので、その日のうちの作り上げたように憶えています。それを地上に向けて見ると大きくきれいに色がついて見えます。レンズの不思議な力に魅せられる第一歩だったようです。その後も、いろいろとレンズの組み合わせて遊び楽しんでいました。
 ある日、西の空にお月様が美しく見えています。望遠鏡でこの月を覗いてみればすばらしく美しく見えるだろうと胸わくわくで覗きました。確かに大きくは見えましたが、はっきりとは見えないんです。月の周囲にきれいな虹がついて、その後も、「高級レンズ研磨」と称するレンズキットを買い、2〜3台作りました。水道工事店で塩ビパイプを分けてもらい製作した望遠鏡らしきものでした。
 私が中学生になった年に天文ガイドが発行されました。製作記事が連載されるようになり、これなら自分でも天体望遠鏡が作れると思いました。しかし、当時親から月々1,000円をお小遣いとしてもらっている自分にとって、材料費、工具代として月々のものは不足でした。そこで、アルバイトというわけで、新聞配達を始めました。夕刊を130〜140部配達して月々、約3,000円を頂きました。
天文ガイドを古くから、購読されている方々にとって、馴染み深い「創業○○年…本邦最古の専門メーカー」と広告されていたメーカーから、8cmアフローマート対物レンズを\9,000円で購入、来るべく土星の環の消失という現象(1966年)に間に合わせようと望遠鏡に製作を急いでいました。
 私の住んでいる宇治という町には、当時製作に必要な工具や材料を売る店がなく、自転車で片道1時間半を掛けて、京都まで出かけました。家に帰ると直ぐに、金切りノコで磨キシャフト、真ちゅう板を切り、ハンドドリルで穴をあけ、ヤスリで面を仕上げ、スラストベアリングを2ヶ使用、水平回転部とした屈折経緯台を組み立てました。
 鏡筒部については、対物レンズセル等は自分で図を書いて、近所の工作所に頼んで旋盤で製作してもらいました。接眼部は、真ちゅうパイプを利用しました。ドロチューブにする真ちゅうパイプの外径とピッタリの内径を持つ相手パイプがなくて、探し回っていたことを憶えています。このようにして、8cm屈折経緯台は完成しました。
 初観測は、やはりお月様です。すばらしく良く見えます。このようにして作った望遠鏡が良く見えないはずがないのです!期待と不安が交錯し、ふるえながら月へと望遠鏡を向けました。良く見えると思っていた8cm屈径も、木星、土星、火星等の惑星の対しては、力不足を感じるようになり、中学3年生の時、大口径16cm反射望遠鏡を作ろうと思ったのです。月収4,000円では、主鏡すら買えません。主鏡の自作から始めることにしました。材料を少しづつ買い集め、研磨台を作り、反射鏡研磨の連載記事を読み返しては理解に努めました。実際の研磨作業のスタートは、中学校を卒業して、高校へ入学するまでの比較的長い春休みを持って始めました。
 私のまわりに研磨について相談できる人もなく、研磨の基本である三つの働きだけで、本当に精密な面が出来るのか不安でもあり、不思議でもありました。砂ズリが終わり、ピッチ研磨にかかって連続数時間研磨後、凸面がほぼ透明な面になってくるとフーコーテストができるようになってきます。球面を基本にして、中央部の焦点距離が連続的に、少し短いタイプが、目指すパラボラだと、連載記事の説明にあります。初めの頃は、焦点位置を探すことすら結構大変で、ナイフで切った影が何を示しているのか理解するために時間がかかりました。その年の3月に始めた16cm鏡の研磨は、3ヵ月後の5月には、研磨作業を止め一様の研磨作業完了としました。連載記事が教えるパラボラに近いと思われる影を、16cm鏡は示していたからです。
 鏡の研磨を終え、鏡筒、架台の製作に取りかかりました。月、惑星を良く見るため、比較的筒内気流の影響の少ないフレーム鏡筒にしました。アルミの平角材のハンマーを叩き、リングにしたものをトップリング、バックリングとして接眼部付近、主鏡周りには、周囲からの光を遮るため、アルミ板を丸めた筒を取りつけました。トップリングとバックリングをアルミのアングルで接続しています。接眼鏡は直進ヘリコイド+抜き差しのスリーブの二重構造です。これは、図面を書き、工作所で旋盤加工してもらいました。
 架台については、宮本幸夫さんがピローブロック4ヶを使用した、本格的な木製の赤道儀の製作記事を書かれていたのいましたので、これをモデルに自分なりの工夫を加えたタイプを考えました。鉄柱パイプを支柱として、鉄アングルと木材を組合せ、ボルトと木ネジで組み立てたもので、溶接はしていません、赤径微動は砲金製の全周ウォーム、赤緯微動はステンレスのオスネジと真鍮製のメスネジを使ったタンジェントスクリューです。
 高一から作り始めて、完成したのは、およそ1年後でした。8cm屈折はレンズを買っていましたが、今回の16cm反射赤道儀は、主鏡まで自作でしたから、初観測の期待感は相当なものがありました。以後、何度もより大きな望遠鏡ということで、20cm、25cmと作ったのですが、この時の感動は、30年近くなる現在でもはっきりと憶えています。自分自身で作った望遠鏡で星を覗くことが、一番素晴らしい事だと今でも思っています。
 この頃になるとカメラを使えるようになっていたので、月、 惑星を撮影を始めました。大接近の前の中接近中の火星をバシバシ撮影していました。合成F200以上の強拡大になると、単体面性あたりの光量の大きな火星でも、露光時間が1秒程度、必要でした。モータードライブのない赤道儀のウォームには、遊びが(いわゆるガタ)ありましたので、赤緯軸のいちばん端、鏡筒から最も遠い所を手で持って、日周運動の速さを身体で憶えるまで何度もその動きを繰り返していました。そして、1秒程度のシャッターを切れるようになっていました。
 何時も、そうなのですが完成した当初は、すばらしく良く見えると思っていた望遠鏡も、時間が過ぎるにつれ、いくつかの不満が出て来ました。その一つがモータードライブのないことでもあり、大口径化でした。