衣裳(いしょう)
 (ころも)上半身に着る服
  
(きぬ) 素材は絹の意
 裳
(も)下にはく巻きスカート
 裙
(も)    〃   プリーツ状

奈良時代およその人口
 約5百万人
 平城京の人口は10万人
 平城宮に働く人は1万人
 五位以上の貴族は130〜150人
 三位以上になると10数人
   

      
貫頭衣 (山口制作)

       埴輪

 奈良国立博物館の字は
聖武天皇の字体といわれています
                ユニバーサルファッション     みい
 
 
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       ようこそ山口千代子の部屋へ           

         永年 服飾に情熱を持ち続けられる幸せを感じております。その傍ら古仏探訪を趣味としています
         仏像が大好きで奈良国立博物館で解説ボランティアをして11年になります。
         毎週火曜日が私の担当です。是非一度私の仏像談義にお付き合い下さいませ。
         お待ちしております。又、史料を参考に推測しての古代衣装の製作を楽しんでいます                   






   
E-mail:c.ufmii@hera.eonet.ne.jp
                 
古代衣装発表の活動記録
 
 ・2008.6.28  積水ハウスすまい塾公開講座「服装に見える古代の歴史」
 ・2008.5.7   NHK「ぐるっと関西」で衣裳・付属品の制作過程を放映
 ・2008.1.27 「なら奈良館」にて古代ファッションの解説

 ・2007.2.11  名張市にて大来皇女1300年遠忌
 ・2004.12.22. 大阪教育大学 教養学科生活環境講座にて解説 
  ・2003.11.2    奈良国立博物館にて「天平ファッションに親しもう」
  ・2002.5.9     奈良国立博物館にて「親と子の文化教室・奈良時代」

公開講座予定
 ・2009.7.26  「なら奈良館」にて「天平衣裳と料理」
 ・2010.3.13   あすか塾主催 「衣装が語る古代の歴史」


  
 
目次  高松塚古墳壁画婦人像   仏像の衣・袈裟  古代の服飾史  天平ファッション発表


古代衣裳を発表

  
平成19年2月11日  名張市にて大来皇女1300年遠忌が催され、衣食住を担当

 
大来皇女の生きた時代はちょうど高松塚古墳壁画の婦人達のスタイル
 
高松塚古墳壁画婦人像    山口制作     

      下の裙
             上の              内衣      外衣

赤・緑・白布を縦に細長く断ち、つなぎ合わせています。今のパッチワークと同じです。
        
  
 
      仏像の衣・僧の衣(法衣・袈裟)の研究発表    2004.10.

                    西村 潤子(文化財・仏像修復彩色師)

                     山口千代子(洋裁教師)       


袈裟は いつ・だれが・どこで・なぜ作られたのでしょう・どんな決まりがあるのでしょう

・袈裟は仏教成立当初、釈迦自らが異教徒や民衆との区別が一目で分るようにと考え出された、
 言わば仏弟子の制服といえるでしょう。
 

・デザインは棚田を模して田と畦道の水田の風景を表わしている。
  釈迦が田植え後の青々とした水田をご覧になり、種を蒔けば秋には稲の収穫があるように、
 仏法を信じると必ず福報があるという教えを棚田に例えられた
 (袈裟を別名「
田相衣(でんそうえ)」「福田衣(ふくでんね)」という)

    

                   


・仏弟子の中には贅沢な衣を持ち、何度も着替えて修行の妨げになったことから、ゴミの
  ような
ボロ裂で作って、執着心や欲心を起こさないようにと戒められた。

・袈裟は今日のパッチワークの原点とも言える。
  布の材料は用済みとなり塵芥のごとく捨てられたものを拾い集めたボロギレ。 
  それを一針一針、心を込めてゾウキン刺し(刺し子)にして、つなぎ合せて仕立てられた。

素材は野蚕の絹・木綿(インドは綿の原産地BC500年)・麻布・鳥毛他に草や樹皮
     糞掃衣(ふんぞうえ)・・・ゴミとして捨てられた汚れや破れたボロ裂を、繋ぎ合わせて
   作られた袈裟をいう

 又、納衣(のうえ)とも称した・・・・納とはボロ布又は、つなぎ合わせての意
  (釈尊は一枚の衣で六年間も苦行されたので、悟りを開かれた時はつぎはぎだらけの
   ぼろぼろに
なっており、袈裟を着けることは
     如来()の心(慈悲)を身にまとうこととなる訳です。
色は外面からすぐに判別し易いため重要視された(民衆は白や色模様のものを着ていた)
  布の色目は鮮明な五正色(青・黄・赤・白・黒)を避け、不正雑色(壊色(えじき)と
  いわれる濁った汚い色。

@銅錆の汚れた色 
    A
河底のヘドロの色 
   
B木蘭色或いは鉄錆で汚れた色の三色を指す。

       木蘭色とは木の実・樹皮を煎じて染めると赤褐色か黄茶系の色となるが、
       木蘭という植物が存在する訳ではない。

・袈裟の語源

TicivarakKasaya(カシャーヤ)→迦羅沙曳→加沙→袈裟 

 サンスクリット語・(古代インド語)  漢語
    Kasaya(カシャーヤ)は赤褐色の意、漢字では壊色

・自分の袈裟は自分で作るのが原則・染める・裁断する・縫う(ほどけにくい返し縫い))
  ま縫いであったが、いたずらで糸を引き抜かれ、立ち上がった瞬間ほどけて大恥をかいた
  こともあったというエピソードもある。


・仏弟子と分るインド僧の日常着として作られた衣服は、長い年月を経て仏教が気候・風土の
  違う国々へ移り広まっていき、身分が高くなるにつれ装飾的な意味合いが濃くなるなど、
  様々に変遷していくことになります。

 例      

鎌倉時代・快慶作・東大寺僧形八幡神坐像
       
 袈裟一部分UP
 彩色にも細かい縫い目が画かれている
         (刺し子)             


                                   

法衣・袈裟  (国・宗派によりその種類を異にする)

サイズや種類の違う長方形の布が三枚(三衣(さんね)と呼ばれる)

      名称  用途  大きさ  形状

仕立て方

その呼び名

仏像の衣

の呼び名

外衣

三衣
(さんね)

 大衣
  (だいえ)

 上衣
 (じょうえ)

 Sanghari 

 僧伽胝

 僧伽梨

 最上着

 又は

 防寒着

 タテ3

 ヨコ5

 九条

 から

 二十五条

 袷仕立て

 

 複衣

 重衣

 重複衣

 大衣

 納衣

 糞掃衣

 中衣

 中衣
 (ちゅうえ)

 Uttarasanga

 鬱多羅僧

 上着

 タテ3

 ヨコ4.5

 ~5

七条以上 

 袷仕立て

 一重仕立て

 小衣

 下衣(かえ)

 Antaravasara

 安恒羅婆裟

 安陀会

 Nivasana

 涅槃僧

 下着

 
 裙

 タテ2

 ヨコ4.5

 ~5

 五条

 一重仕立て

 単衣


 

内衣

偏衫(へんさん)(肌着)    ・僧祇子(そうぎし)又は         

    *   1肘・・・肘から指先の長さ(42~45cm
    

                                                                            

さて、袈裟の着装法について 

偏袒右肩・・左肩にまとい右肩をあらわす、古代インド僧の最敬礼の姿

通肩・・・・僧衣を着する際、両肩を衣が覆う  

  の方法を理解出来ても立派な着装はむつかしく、そこで私共は実際に一歩近づくための
  試みで、宇治平等院石丸執事の計らいで京都下京の仏具店の井筒風俗博物館に出かけ、
  館の解説員の方達から見られた袈裟にまつわる歴史を聞き実物等も見せて頂いた。


         

 いろいろ知り得たこともあるがなお着装するには充分でなく、後日こちらで考証の上
 作り上げた実物大の袈裟を携え、今度は宇治平等院石丸執事を訪ねる。ありがたいことに
 師は話を聞いて下さり、この袈裟に目を通して、私共のために目の前で自ら着装の、
 一瞬一瞬ポイントを教えながら、仏像・仏画を見るごとく最後には、ひとすじの衣の裾が
 襞になるまで整えられ、やがて着装を終え、師は静かに合掌され頭を下げられた。

 そのお姿に接し私共の感動と感謝。思えば私共お互いの仕事柄、時を同じくして仏像の
 衣に興味を持ち、調べ始めた当初から考えると、どれ位多くの身に過ぎた方々からご協力
 ご指導を頂いたことかと心から感謝している。


 上記に書かせて頂いた様に袈裟に関する様々なことを少なからず知り得ましたが、
 同時に“袈裟に関する大事な心”も学ばせて頂いていることに気付いている昨今です。

  最近は情報を下さる方々も多く、寺や美術館に保存されている、逸品で貴重な袈裟を見に
 参ったり、又私共の一人はチャンスを得て、中国敦煌莫高屈の古仏群の実物にお目に
 かかったりと、袈裟に関する興味をより深めております。

  

今に至り形・色・サイズ・作成法等 私共が考えて作りました袈裟の実物です。
袈裟の素材について
 当初は主に木綿(インドは綿の原産地BC500年)か麻布であったと思われます。
 その後中国
おいて絹や錦で飾られていきました。

 今回、この袈裟はポリエステル系の化学繊維で作製してあります。しわになりにくく、
 体に纏わり付かないので、衣文の流れを美しく表現できる化学繊維の特性を活かしました。

 尚、試着用の袈裟を何点か用意しておりますので、着装をお試み下さい。

 この袈裟について何か御用の方は遠慮なくお尋ね下さいます様、付け加えさせて頂きます。

     
僧祇子(そうぎし)
 納衣(大衣
   敦煌328屈 盛唐時代 A河底のヘドロの色 @銅錆の汚れ色
B鉄錆で汚れた色 
  偏袒右肩

                                                                 

    

  敦煌259 北魏          通肩          倶舎曼荼羅(12c初)より袈裟(三衣)を製作         

  
         小(下)衣・裳      偏衫(肌着)袈裟の下着   中衣・ 偏袒右肩     大衣・通肩


            
      古代の服飾史                   平成15年 12月 22日

  古代のファッション縄文時代〜奈良時代)

原始時代の服飾

縄文時代(〜BC3c)・・日本原住民の文化 
 
縄文時代の衣装を伝える物として土偶土器の文様から推測されます
  
・衣服材料として狩猟で得た獣皮・鳥類の羽毛・魚皮・植物
  ・
縄文晩期には布目痕土器片・植物靱皮繊維の編布断片が出土
    (越後アンギンが 縄文時代の編布を今に伝えている)
   ・
まじない・装飾として貝輪(カイワ)・耳輪・首飾り・ペンダント
 
 ・青森県三内丸山遺跡より骨・エイの尾で作られた縫い針100本以上出土

 
 
弥生時代(〜4c)・・・・新文化の伝播(新しい文化を持つ他国の多くの人々が入り、新技術をもたらした)    
 織機の木枠・布断片の出土・銅鐸や土器片などに線刻された貫頭衣の衣装
  「魏志倭人伝」に記された3世紀の日本風俗
  
倭人は皆、裸足で男子は大人も子供も顔面・身体に入墨をし、其身体に赤土を塗る
   頭は髪を束ね、かぶりものでなく麻などで包むか、楮などの植物繊維で結んでいる
   横幅衣(オオフクイ)・・・男子の服装は長方形の布を縫わずに肩にかけて前で結び、もう1枚は腰に巻いて結ぶ
   貫頭衣(カントウイ)・・・女子は長方形の布の中央に穴をあけ、頭を通して着る 髪は束ねている 

   繊維の
材料は紵麻・楮・藤・葛の勒皮繊維  
             絹も3世紀には単純な文様織物を産出していた
   織機は原始居座機で織物の最大幅は30c
   邪馬台国の卑弥呼が魏より絹織物・鏡100枚与えられた

  

古墳時代
(4c〜6c)・・・大和朝廷による日本統一された時代
 大和朝廷の国内統一の結果、470年代中国・朝鮮からの多くの帰化人によって、
 高度の養蚕製糸、機織の技術が導入され、貴族たちは大陸の服飾を模倣し始めた 

 民間から朝廷への租税として、麻布・絹・?(アシギヌ)・倭錦の織物が納められ始める

 服装・生活様式は土偶・埴輪に見られるが、古墳被葬者は支配階級層で権威の
 象徴の表れで、特殊と考えられる

 ・前開きの衣服が新しく執り入れられ、
  ・左衽2部式の服装は北方騎馬民族の胡服(ペルシャ服)に同じ

 ・彼等の衣服は世界中に広まり洋服のルーツになる(右の埴輪も出土)
 ・衣(上着)は男女共、筒袖・腰丈・上領(丸首) 
 ・左衽の打ち合わせ
・胸紐で結ぶ (右衽も多く出土)
 
男子像は衣褌(キヌハカマ) 
 ・褌はゆったりとしたズボン風で膝のところを足結の紐で結んでいる
 ・頭は結髪 みずらや鉢巻風の冠りものをしているのもある
 ・装身具として玉で造られた首飾・耳飾り・指輪もあった。
 
(クシロ)の腕輪・まよけとして櫛を挿す
 ・
女子像は衣裳(キヌモ)ロングの巻きスカート状の裳をまとっている
 ・頭上には種々の形の髷を結う
 
 ・巫女の埴輪から倭分布(シヅリ)の帯をしたり、襷(タスキ)を肩から掛けている姿が
  見られる

飛鳥時代・・・・中国風と韓国風(特に高句麗風)が混和  
 
推古天皇11年(603)に我が国最初の服制である冠位十二階が制定される
  服装で身分を表わす
 (位階による衣服の色と冠の色は同じ)

     男性         女性 「天寿国繍帳」の人物像から当時の服制をたどる(古墳時代の衣装を継承
中宮寺・天寿国曼荼羅繍帳
622年
 古墳時代の衣装を継承する衣
・男女共褌や裳と上衣の間の襞のような短い裳
・ヒラミ(腰衣)
 男性 上着とズボンの裾に色違いの布で縁取る
       襴(
ラン)という
    冠・・・上着と同色 
 女性 裳・・・プリーツのスカート状
    衣袋・・・現代のショルダーバッグ 

天寿国繍帳
の銘文
・下絵の画家 百済系の東漢末賢
(ヤマトノアヤノマケン)
       高麗加溢
(コマノカセイ)  
絵師 高句麗系の帰化人
      推古天皇朝の衣裳・冠位十二階608年)
官位名称 大徳 小徳 大仁

小仁

大礼

小礼

大信

小信

大義

小義

大智

小智

 色 彩
色彩名称

濃紫

薄紫

濃青

薄青

濃赤

薄赤

濃黄

薄黄

濃白

薄白

濃黒

薄黒

608年隋の正使の服装は右衽であった
中国では「人道者以右為尊(人の道は右を以って尊しとなす)」との思想のもとに右衽

645年大化の改新による律令制度が導入  
調・庸の税制を唱えて律令体制の施行を試みた。
国内強化のため冠位の細分化で官僚機構の整備を充実、唐で流行している服装様式を採用し始める

 
大化3年(647)・7色13階  大化5年(649)・19階  天智3年(664)・26階 
 

天武・持統朝の衣服
 大幅な服飾の改変・位階は皇族と臣下の位をはっきり区別し古い習慣を禁じ唐風にしようとした
 682年 位冠が禁止され冠は黒一色(漆紗冠        
   
・位による文様の大きさも定められた・男女とも結髪     
     ・領巾(ヒレ)・前裳の禁制
     ・左衽 


 天武天皇朝の衣裳(685年・ 48)

官位名称 親王
 明位
諸王
 浄位
臣正位

臣直位

臣勤位 臣務位 臣追位 臣進位
 色 彩
色彩名称

朱華

朱華

深紫

浅紫

深緑

浅緑

深葡萄

浅葡萄

                           (色目は定かではありません)

     持統天皇朝の衣裳 60

官位等級

1〜4 5〜8 9〜12 13〜20 21〜28 29〜36 37〜44 45〜52 53〜60

官位名称

親王明位

諸王浄位

諸王浄位

臣下正位

臣下直位

臣下勤位

臣下務位

臣下追位

臣下進位

色   彩

色彩名称

朱華

朱華

黒紫

赤紫

深緑

浅緑

深縹

浅縹


高松塚古墳壁画に描かれた人物像
当時の服制が朝鮮風から唐風に移行していく過渡期
男女共 襟は左衽
男性の服装(朝服) 

 袍の色相から701年以前のもの 白袴黒の漆紗冠
女官の服装(朝服)・・690〜701年当時の衣装


・髪は後頭部に垂れた部分をはね上げるようにして白い紐で束ねる
・衿はとんぼ頭と長紐で結ぶ(結紐)の2通り
・長い襞のある裳・裾にフリル
色々の台形の布を縫い合わせた巻きスカート(パッチワークの技法)
・細い腰紐を蝶結び
・袖口や上衣の裾回りから内衣を出す(上衣の裾の襞はヒラミか?)
・手に翳(サシバ)・団扇

 服制による古墳の製作年代は7c末〜8c初頃と判断


奈良時代

 大宝令(701)・養老令(718)の制定 
  833年 令義解(養老律令の注釈書)より唐風様式を模倣し、唐文化一色の時代 (令集解901〜923   

礼服・朝服・制服の服制が定まる 
 大宝元年の大宝律令で律令制度が整えられていった。より唐風様式模倣の時代でもあります。
 服装についても大宝令の中の衣服令で細かく決められました。

 それは身分や位の違いによって公服を、礼服(ライフク)・朝服・制服に分けて規定されました。
 これが後の基本法になり実効は平安時代初期まで続くことになりました。
 
当時布も税として納められ、主に絹織物と麻布です。
  木綿は室町時代後期から普及する繊維で、奈良時代にはなかったのです。ですから布といえば麻布を指します。
 又、反物の幅や長さにも細かい制約があり、麻布の巾は71〜74cm・絹は50〜56cmと決められていました。

 
麻布の原料植物は主に大麻と苧麻
  
大麻・・・一年草のクワ科 茎は直立し、2.5m内外 掌状の葉
   苧麻・・・イラクサ科の宿根性多年生植物(カラムシとも呼ばれる)で原野に自生、丈は1〜1.5m 桜葉と酷似

      
布の大半はこの苧麻の繊維

養老2年服制(718年)・・・位階による色調(色目は定かではありません)

官位名称 臣1位 臣2・3 臣4位

臣5位

臣6位 臣7位 臣8位 初位
 色 彩
色彩名称 黒紫   深緋 浅緋 深緑 浅緑 深縹 浅縹

 708・712年 衣の袖口と身幅の細狭を禁じ、袖口の寸法を八寸以上一尺以下と定める
 719年   衣服を右衽に改められる  「天下百姓右襟」と発令     
 723年   衣冠の制に違反する形式の乱れと染織の奢侈が戒められた   
 770年   用尺を追加する袍を戒め、袖口の広さを五位以上は一尺以内、六位以下は八寸以内と制限した  
 783年   驕奢の傾向はその後も止まず、女官たちの服色の乱れと貴賎の別なく禁色を着る事が正された  
礼服(ライフク) 中国の伝統的な儀式服・祭服に習ったもの
5位以上が着用する重要儀式服  大祀(即位)・大嘗(即位の年の新嘗祭)・正月の朝賀
養老の衣服令による命婦礼服
薬師寺 
吉祥天像(8c後半)


内親王の礼服
 
 宝髻
 深紫の衣
 緑の裳
 蕨膝
 浅緑のひらみ
 錦の靴下
 緑の履




章懐太子李賢の墓の壁画(711) 

正倉院に大袖のみ伝存袖丈100cm


  
朝服(チョウフク)
 
有位の官人が朝廷の公事に携わる際に着用する服(文官・女官の最も日常的な官廷服)
     武官朝服                   宮廷で勤める女官の衣装    
聖徳太子画像(8c)      敦煌壁画
鳥毛立女屏風(752年
    


プリーツの巻きスカート
   胸高に巻く
   丈は長めで裾をひく
 背子
(ハイシ)・・・ベスト
 領巾(ヒレ)・・・ストール
 花子
(カシ)
・・・・・額の化粧
制服(セイフク) 無位の一般庶民が公務に従事する時に貸与される衣装(公務員のユニフォーム)
浄衣(
ジョウエ)
 造東大寺司の造物所や写経所で働いていた人たちが着ていた衣装、いわゆる仕事着です
 「浄衣」と墨で書かれたのが残されていることからそう呼ばれます


巧清成解 申請暇事合 三箇日 
右件 依穢衣服洗 請暇糊如件 以解、
宝亀三年三月二十一日

           男性のスタイル(布袍)
・役所から支給されたのではなく貸与された
・破れたり、汚れて着れなくなったり、
 又職を辞す時は返却させられたようです。
・だからこそ正倉院に伝存しているのでしょう

・正倉院の文書の中に「洗濯の為三日間の休暇願い」
 があります
・一着だけで着替えはなかったのです

庶民にとって浄衣という衣装は、特殊で貴重な衣服だったのでしょう
   布とは麻布のこと 巾70〜74cm
貫頭衣(カントウイ) 一般の庶民や農民の衣服は古代から改良されることなく、麻布の簡単な粗末なものであったことが想像されます
貫頭衣 (山口制作) 首だけ開けた
  
山上憶良の万葉集「貧窮問答歌」から
 「・・・人とはあるを 人並に吾も作るを 綿も無き布肩衣の 海松(みる)の如(ごと)
 わわけさがれる 
かかふのみ 肩にうち懸け 伏廬(ふせいお)の 曲廬(まげいお)の内に
 直土(ひたつち)に 藁(わら)解き敷きて ・・・・・・・」

   「人間として生まれ、人並みに働いているのに、綿も入っていない麻の袖なしの、しかも海松のように
  破れて垂れ下がり、ぼろぼろになったものばかりを肩にかけて、低くつぶれかけた家、
  曲がって傾いた家の中には、地べたにじかに藁を解き敷いて、・・・・・」
と歌っている

このことから農民は貧困に喘いでいたと想像されます

帛布・・・・「(きぬ)」は絹織物をいう「布」は麻織物の事
 ・・細きを「絹」・粗きを「?(アシギヌ)」
      
上級のものを「絹」・普通のものを「?(国産の絹の意)」 
    寸法は一定ではないが幅1尺9寸(56c) 長さ6 
 ・・麻布のこと 寸法は一定ではないが7275cm
 天平尺 一尺は約29.67cm
 織物・・羅が多く紗は少ない(中世以後は紗が多くなり、羅がなくなる)

関東各地で出土した大腿骨から推計した各時代の平均身長
男cm 女cm 男cm 女cm
縄文時代
弥生時代
古墳時代
鎌倉時代
室町時代
159.1
164
163
169
156.6

148.1
150
151.5
144.9
146.6

江戸時代
  前期
  後期
明治時代

155
156.4
155.3
143
144.7
144.7
縄文人の平均寿命15歳以上の男子133体の平均は31.1歳 女子102体の平均は31.3歳です。

公事に携わる際に着用された表衣(ウワギ)の事 
正倉院に伝存する衣装について
 正倉院の衣装類は制服の浄衣と大仏開眼会に使用された楽装束類(舞台衣装)がほとんどです
 それは墨書で印されていることでも分けられます。
 特に楽装束には楽名・衣服名・年月日などが墨書されていますが、その他定かでない衣装も沢山あります。

 男性用布袍  (麻)              (絹)       半臂(ハンピ)・・男性用の胴着
  
  頭巾(トキン)
 かぶると丸い部分に髷が
      入っている状態
    
  
 
    襪
(しとうず)    
    くつした  

   

奈良時代のファッションの流行について

 唐様式のファッションを習って服制が規定されたのは大仏開眼会(752年)より50年前です。
それ以前は朝鮮半島のファッションが主流でした。埴輪・高松塚古墳壁画のファッションに見られます。
その特徴の一つが左が上前の打ち合わせ(左衽)です。なかなか切り替わらないので、20年後ついに
「男も女もすべて、そして百姓に至るまで右前(右衽)にしなさい」との詔がだされます。しかしその
30年後の正倉院に左前があるというのは、古習はなかなか改まらなかったということですね。

 朝服についても1300年前に決められたスタイルは、その後細身を好むようになっていったようです。
再々守るようにとの詔が出されますが、ますます細身になり遂に12年後「衣の袖口と身幅の細さを禁じ、
袖口の幅は広げなさい。前幅が狭いので前がはだけて見苦しい厳しく取り締まるよう」との詔が出されます
その後も違反を繰り返しますがその都度戒められました。そしていつの頃からかゆったりサイズが流行って
いきます。流行した細身が禁じられて60年後、大仏開眼より20年後ですが、ビッグサイズが禁じられます。
生地の使いすぎや袖口巾を狭めるよう制限した詔が出されています。
聖徳太子の画像を元に製作した衣装は、超ビッグなサイズの衣装です
いつの時代もファッションへの関心は高く、はやり、すたりがあったようです。   山口 千代子         

 研究発表 (2003.8.28)

                 この聖徳太子は服装違反 ?

聖徳太子といえば左の聖徳太子画像(8c)の姿を
イメージしませんか

しかしこの服装は服飾史上、奈良時代の武官朝服と
いわれる衣装なのです

聖徳太子の飛鳥時代にはこのようなコスチュームは
ありませんでした

聖徳太子が推古11年(603)我が国最初の服制である
冠位十二階を制定
 ・位を冠の色であらわした
 ・衣の上着の色は冠の色と同じ
 外見の衣装で身分を明確に知らしめたのです

王族は例外で聖徳太子の色は不明ですが、右
「天寿国繍帳」の人物像に見られるようなスタイル
であったと思われます。




天寿国繍帳
  (
622年
冠と上着は同色
 


683年 大幅に服飾が改変される 唐で流行している服装様式を模倣していきました
大宝律令(701)・養老律令(718)が制定され律令制度を整えていき、衣服についても令で細かく決められた
712年 衣の袖口と身幅の細狭を禁じ、袖口の寸法を八寸以上一尺以下と定める
 「衿あわせが浅く、胸がはだけて見苦しい・・礼に適うようにせよ」(スリムな衣服が流行したようです)
723年 衣冠の制に違反する形式の乱れと染織の奢侈が戒められた
770年 用尺を追加する袍を戒め、袖口の広さを五位以上は一尺以内、六位以下は八寸以内と制限した
 聖徳太子画像(8c)の衣装は、当時流行していた違反のコスチュームで描かれているようです
 このことから聖徳太子画像の制作年代を服飾史上では8c前半から770年以前と推定できます



  

    詰襟の袍といわれる上着(正倉院に現存)

   ----聖徳太子の袍 ・・・・(想定図)
  

  
  聖徳太子画像をもとに制作

天武・持統朝では親王の服色は
朱華(はねず)色と決められましたが、
古代の色が今日ではどの系統の
赤色なのか定かではありません。

上記「天寿国繍帳」の人物が着ている、
プリント画のようなオレンジがかった
赤色との説もあります。

左に製作しました衣装の色相は
画像の薄赤色に似せて、褪せた色を
濃い色のみ表現したものです



    天平ファッションに親しもう                               平成15年11月
       奈良国立博物館にて発表

挨拶  
 
皆さん,こんにちわ。これから奈良時代の衣装についてお話させて頂きます。
 毎年秋にはこの博物館で正倉院展が催され、遠く天平の様々な宝物が出陳されております
衣装発表の主旨

 
その中には衣装や装身具も含まれております。 
 皆さんはその衣装がどんなふうになっているのだろうと想像したことはありませんか。
 どんな人が着ていたのだろう、どんな時に、どんな場所で、それを着てみたら
 どんな風になるのだろうと、あれこれイメージを膨らませてしまいます。
 その雰囲気が少しでも味わいたくて、一着又一着と作ってみました。
 これは決して復元衣装や再現衣装というものではありません。 でも本物に少しでも近ずけようと、
 いろいろな資料を調べたり、生地を探して試行錯誤の末出来上がった衣装です。
 何人かの方には試着して頂いて、衣装の説明をしていきたいと思います。

当時の服制では礼服・朝服・制服とに分けられていました。
それではまず初めに制服から見て頂きます


                              浄衣
布袴・布衫・布裳の布は麻布を表しています。

 布衫 (ぬののさん)    麻布の下着・肌着
 汗衫(かんさん)     絹布の下着・肌着
 腕貫(うでぬき)     腕カバー
 早袖(はやそで)     肩当て
 頭巾(ときん)      帽子
 襪 (しとうず)     靴下
 前裳(まえも)     作業用のエプロン
 布袴(ぬののはかま)   麻布のズボン 
                 閉袴式
(ヘイコシキ)
                     袴式(カイコシキ)
 半臂はんぴ     男性の胴着の一種で袖が短い
男性用スタイル




 
裾脇スリットは耳
浄衣(ジョウエ)いわゆる仕事着です
「浄衣」と墨で書かれたのが残されていることからそう
  呼ばれます

・役所から支給されたのではなく貸してもらっていたようです
・破れたり、汚れて着れなくなったり、又職を辞す時は返却
  させられたようです。
・だからこそ正倉院に伝存しているのでしょう
・正倉院の文書の中に「洗濯の為の休暇願い」があります
・一着だけで着替えはなかったのでしょう
  
   本当に特別なものだったと言えるでしょう

布袴  閉袴式(ヘイコシキ)

運動量として       
方形のマチをはめ込んでいる
布袴  開袴式(カイコシキ)

閉じないで開けている
  布衫(ヌノノサン)
 
(下着です)
 袖底が開いている
     動き易いためでしょう   

女性用スタイル

単仕立てで麻布製
上着
 女布袍   
   左衽(
サジン)・・・打ち合わせが左前
   盤領(
アゲクビ)・・・詰襟 
   両脇には三角形の襠
(マチ)を入れ、
   裾広がりになっている
   下の裳が広いのでゆとりが必要
   袖は布を半分に切って、袖口は耳

 布裳
   裳・・・腰部に巻き下半身を覆うもの
       巻きスカートのようなもの
   二幅を中央で継ぎ両端は耳

このスタイルは埴輪に通じているようです

布袴・布衫・布裳の布は麻布を表しています。
仕事着
附属の類
作業グッズを紹介いたします
 袖の長さが60〜70cm、広げると横幅は2mにもなります
 よほど袖をたくさないと手が出ないので、仕事をするにはかなり不便であったと思われます

早袖(ハヤソデ)
・上着の汚れを防ぐ      
・荷物を担ぐ時に肩を保護する為
・夏上着として        

   前          背中       
    腕貫(ウデヌキ) 
 腕カバーのこと  (白い絹を使用)
        
・写経の際、衣服の汚れを防ぐ為に着用
・紐に名前の墨書あり        
・腕先に写経した経文の逆さま文字  
 (菩)が印されたのがある
   前裳(マエモ) 
 作業用のエプロン(麻布)
  
 襪(しとうず) 
 靴下  
 麻布  




素材の麻布・仕立て方について
 
これは麻布の単仕立てで出来ています。当時布も税として納められていました。主に絹織物と麻布です
 木綿は室町時代後期から普及する繊維で、奈良時代にはありませんでした。
 布といえば麻布を指しています。
 そして布の反物の幅や長さにも細かい制約があり、麻布は70〜74cm位と決められていました
 その布幅いっぱいを使って、両端の耳をうまく利用して無駄のないよう仕立てられています。
 しかし、機能性などこだわるところはこだわった仕立てをしています。後に出てまいります。 
 やっと見つけたこの麻布の幅は74cmです。ですから同じように仕立てる事が出来ました。

布袍(舞台で着付ける)
正倉院に伝存する袍について
 正倉院の衣装類は今までお話した服装類と大仏開眼会に使用された楽装束類(舞台衣装)がほとんどです
 それは墨書で印されていることでも分けられます。
 特に楽装束には楽名・衣服名・年月日などが墨書されていますが、その他定かでない衣装も沢山あります
 また、正倉院には華やか衣装も数多く伝えられております。 これからお話する二点は正倉院写真集や
 図録にある衣装を参考にして、生地の風合い・色目・サイズなど実物に近づけて製作しました。
 その雰囲気を少しでも味わって頂ければと思います。舞台場で着付けをしながらお話をしてまいります

         
これは宝物の纐纈布袍を参考にしました。男性用なのです
いかがですか。随分斬新な衣装で華やかですね
 ・纐纈(コウケチ)とはしぼり染のこと
 ・布袍ですから麻布で出来ています
現在は褪色して黄色に近い色ですが当初は紅色だったのです。

デザインの特徴
 ・領(エリ)は詰襟形式の盤領(アゲクビ)
 ・右衽
(ウジン)・・向かって右側を上前の形式
 ・袖下はカーブ仕立て
袍の袖下はほとんどこのように刳られています
おおきいカーブや小さいカーブのがあり、体に添うように工夫したのでしょう
余分なゆとりはカットして機能性を求めたようです
当時の縫製技術の高さが覗えます。両裾脇はスリット 耳を利用

貫頭衣

当時は勿論素肌の上に着ていました。裸足か藁草履
庶民の衣服  (貫頭衣)

 庶民はどんな服装だったのだろうか
 素材は麻など植物の勒皮繊維(楮・藤・葛・桑)などから織った布で、
 頭だけ開けた簡単なものでした
 山上憶良が万葉集「貧窮問答歌」に歌っていることから貧困に喘いでいたと
 想像され
ます              
           

 当時の服制で礼服は、皇太子・親王・内親王や5位以上が元旦・即位式などの儀式に着用する服装です
 最高技術の絹織物でとても豪華で華麗であったと想像されます。
 それではこれから朝服(チョウフク)といわれる服装についてお話いたします
 貴族が朝廷に出仕、公事に携わる際に着用した衣装です。しかし実際の衣装は残っていないのです。
 又、階級によって服色も決まっていたと申しましたが、それではその色がどんな色調なのかは定かではありません。


                         朝服      絵因果経(奈良時代)
                    
    画像・経絵等からの貴族の想像衣装  (素材は絹)
    

   袍と裳 女性用
                
女性用(絹)
 汗衫(カンサン)
 下着のこと
 
 
刺繍の帯
        
 

・脇にマチが入れてある
・裾も丸くなっています
・打ち合わせが左衽

        

 (あやろうけちあしぎぬのまぬいのも)
 綾臈纈あしぎぬ間縫裳を参考に
     
 
 ・今の巻きスカートのようなもの
 ・台形の細長い帯状の布をパッチ
   ワーク風に継なぎ合せて縦縞に

これは全部絹です。しかしこのようなスタイルでの衣装が伝えられていたのではありません。
個々の衣装を組み合わせたら天寿国繍帳・高松塚古墳壁画の女性像に通じるデザインのようになりました