A-01. The apostle is the cause of disaster.


 月のない闇夜の降魔が時、学院の一室にゆらゆらとランタンの焔が揺れている。

 その前に腰を下ろし、羊皮紙に羽ペンを滑らせるのは漆黒の法衣をまとった一人の導師だ。彼の姿は闇の中に灯る灯火の中にあって、なお深い影を落とす闇のように映る。

 あてがわれた私用の研究室は彼の実力からすれば狭く、所狭しとわずかに埃をかぶった書物に埋め尽くされていた。

 背後には扉、正面には窓がそれぞれひとつずつ。両側の壁は決して厚くはないが、棚の上に唯一の装飾品として飾られた、防音の魔力を秘める水晶球のおかげで騒がしくなることも、音が外に漏れる心配もない。

 その、背後の扉が、蝶番がきしむわずかな鉄の音さえ吸われて音もなく開く。

 足を踏み入れるその気配を、彼は知っている。だから、振り返ることも、羊皮紙に滑らせる羽ペンの動きも止めずに、背後に立つ女の言葉を待った。

「……例の者の始末、完了致しました…」

 冷たく、感情のこもらない声が控えめに響く。

「それと、これは新種の緑腐病の病原体です…」

 その言葉にようやく彼は振り返って、女の手から緑色の液体に満たされたガラス瓶を受け取った。

「ごくろう…」

 こと、とテーブルに受け取ったガラス瓶を置いて、彼は満足そうに呟く。

 いつもならばこれだけで終わるはずの逢瀬の時。けれど、そこで立ち去るはずの女は彼の闇色の瞳を眺めて、言葉を選ぶようにわずかな躊躇を見せて、語る。

「……役に立たない手駒は、即座に切り捨てると…?」

 それが、自ら程度の存在が口にしてはならない問いかけだと知っている。けれど、女はあえてその疑問を言葉にして投げかけていた。

「望まぬ手駒は、邪魔にしかならぬさ」

 冷淡に、冷たい声が響き渡る。彼はテーブルに置いたガラス瓶を再び手にとって、ランタンの焔に彩られる緑の液体を眺めたまま呟きを漏らしていく。

「私はまだ、お前たちのように "立場" を捨てるわけにはいかないのでね…」

 だからこそ必要のない存在は切り捨てるのだと、言外に言い放って、彼はわずかな微笑を浮かべた。

「……それは、あの少女のため…?」

 男はその問いかけには答えない。その一瞬の沈黙の後に、女が続けた言葉は今までの言葉を打ち消すもの。

「…………失言でした」

 その言葉に男がまた、ふ、と微笑を浮かべて振り返る。

 頬から顎にかけて、男の指先が触れる。その冷たい指先の感触と、彼の視線を受けて女はぞくりと冷たい風に包まれたような錯覚を覚えた。

 ごく、自然に、男の唇が女の唇を塞いだ。それを女は瞳を閉じることも忘れて受け入れる。

 我に返ったときには、男は先程と同じように背を向けてガラス瓶を眺めていた。ずっと瞳を開けていたはずなのに、幻覚にでもかけられたかのように一瞬前の記憶は途切れている。

「お前は、どちらでいるつもりだ?」

 さしたる興味もなしに、紡がれる言葉。

 役に立たない手駒に成り下がって、呪縛から逃れるか。役に立つ手駒として、生き延びるか…。

「……愚問です…」

 答える女の言葉とは裏腹に、彼女の声には今までのような無感情さは失われていた。そこにあるのは明らかな困惑と、迷い。しかしそれでも、彼女のゆく道は決まっている。

 男はなにも言わずに、沈黙をもって女に答える。それが、彼が何者も必要としていない証明のように思えて、女は少しだけ視線を下げた。

「……では、失礼致します…」

 女はうやうやしく青年に礼を向けると、彼の言葉を待つこともなく退室した。

 残された男はもう一度かすかな微笑を浮かべると、何事もなかったかのように先程までの作業に戻る。


  ばさり、と、彼の肩に乗る漆黒の鷺が羽ばたいて、一枚の羽根が床に落ちた……




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