常保貴 [事業場名簿で常保国]

安治川093 〔本人証言、原陽県で聞き取り、2000年12月整理(張忠杰)〕

 ・1944年4月抗日赤衛隊に加わり、6月に陽武駅で捕えられた。
 ・日本兵は沢山銃を構えシェパードを引いて、守りを固め護送した。貨車はすし詰め状態で耐えきれないほどの蒸し暑さだった。しかし、動こうとするがめった打ちに遭うので動けなかった。
 ・新華院では山へ登って穴を掘り、ガソリンを埋める仕事を早朝7時から午後6時まで働かされた。1日2食で、アワの粥が2杯しか与えられなかった。絶えず日本兵が監視していた。
 ・逃走しようとした人は、見つかると直ちに銃で打たれ、弾が命中しなかったときは、シェパードをけしかけて追わせ、追いついた後シェパードにかみ殺させた。夜寝るときは監視がさらに厳しくなった。警備隊は棍棒を持ち、パトロールしていた。大小便に行くときでさえ、すべて報告しなければならなかった。報告しないと、やはり殴られた。
 ・新華院で1ヶ月近く働かされてから、全員を集合させ、800人を選び出し腕を数珠つなぎに縛り船に乗せられた。日本人は1人ひとりに掛布団1枚、毛布1枚、タオル1枚、黄緑色の裏なしの服1着を支給し、これから船に乗って日本に行くと言われた。
 ・船に乗ると、船倉に閉じこめられ、たくさんの石の上に横たわった。船中では、生のままのトウモロコシの粉やニンニクを食べさせられた。船酔いで何日間も食べられず、病死した人もいた。その死体は海に投げ込まれた。船を降りると服は全部消毒され、風呂に入れられ、木造の建物に住まわされることなった。
 ・安治川労工所では埠頭で船から石炭や石などを下ろす仕事をさせられた。汽船の上で石炭を下ろしているあるとき、わたしは足を負傷した。看守は医者に連れて行こうとせず、拒めば殴り、通常どおり働かせた。
 ・木造船の上で石炭を担ぐときには、いつも3ヶ所で監視をしていた。日本人は手に棍棒を持って、積み方が遅いとすぐに殴り、積み方が少ないときも、岸に上げるのが遅いときも、殴りつけた。石炭を積み上げてから戻ってくるのが遅いと、また殴られた。このように半殺しの状態で働かされていた。ときには100キロもある石炭袋を担がされ、袋のせいで、腰をねじったり、足を捻挫する人が続出した。しかし、治療は受けられず、いつもどおりの仕事をさせられた。
 ・食事は朝も夜もゴムのようにねばるマントウ1個とうすいスープだけだった。昼は仕事をした場所で弁当を食べ、午後は暗くなるまで働いた。長期間に及ぶ空腹で、全員骨と皮ばかりにやせこけて、顔は土気色になっていた。病気になって働ける力がなくなった人には、食事も与えず、うすいスープだけを飲ませていた。重病と判断された人は病人部屋に入れられ、死を待つしかなかった。死ぬと火葬にされ骨箱に入れられた。骨箱の上には死亡した人の名前と住所が書かれた。
 ・誰もが病気を抱えながら、それでも働かされ。牛馬にも劣る生活が続いた。
 ・当時の過酷な労働と体を痛めつける仕事のせいで、私の体には今までずっと病気が残り。曇りの日や雨の日には足が痛くて耐えらず歩くことさえ困難となっている。
 ・このようにして、1944年7月から1945年8月15日の日本降伏までの間、私たち第3、4隊の200人の内、多くが亡くなった。彼らの遺骨は持って帰れないものもあった。今思い出すと、悲しみがこみ上げてきて、涙が流れる。