時必賢 [事業場名簿で央必賢]

川口121 〔時得勝(孫)の証言、2007年3月、原陽県で聞き取り(張忠杰)〕

 ・祖父は1944年に原陽県県城で拉致されました。そのあと汽車に押し込められて、山東省済南の新華院に運ばれました。そこにいた一ヵ月余りの間、祖父はこの世の苦しみをなめ尽くしました。わずかな食べ物しか与えられない上に、殴られてばかりいました。かつて祖父が話してくれたのですが、新華院では大小便に行くことすら報告しなければならなかったそうです。そうしなければこっぴどく殴られるからです。毎日、死亡した人が外へ引きずり出されていました。そこはまったくこの世の地獄だったそうです。
 ・およそ一ヵ月余りが経った頃、祖父たち一人一人に服一着が配られた後、済南の新華院を離れて青島に運ばれました。青島で一夜を明かした後、翌日には船に乗せられて日本に運ばれました。祖父と一緒に日本へ行かされた人の中には、同じ村の秦登嶺たちがいました。海上を十日間進んだ後、船はようやく日本に着きました。祖父は船から下ろされた後、今度は小さな船に乗せられて、大阪の川口労工所に運ばれました。
 ・数日後にはもう仕事が始まりました。主には船から荷を下ろす仕事をさせられていました。荷は石炭、マメかす、鉄、銅などでした。一日十数時間働かされていました。朝食はマントウ一個と薄いスープ一椀、昼食は埠頭で食べていましたが、まったく量が少なく、それでも重労働を強いられていたのです。少しでも動きが鈍くなると、すぐに日本の現場監督から殴られました。たくさんの人が病気になりましたが治療はしてもらえません。病気で死ぬ人も、飢えて死ぬ人もいたそうです。
 ・あるとき、祖父は船から炭酸ナトリウムを下ろしていたとき、むせかえって両目から涙がだらだらと流れ落ちました。祖父はすぐに仕事の手を止めて、少しの間顔を洗いに行ったのですが、それが日本の現場監督に見つかってしまいました。監督は持っていた棍棒を振り上げて殴りかかり、祖父をめった打ちにしました。それから二日間、祖父はまったく体を動かせなくなっていました。仲間たちが面倒を見てくれて、ようやく少しずつ良くなったのですが、また引き続き働かされたそうです。
 ・日本が降伏してから、祖父たちはもう働かなくてもよくなりました。生活も保障されるようになりました。しばらくして一人に一着ずつ服が配られた後、船に乗って帰国しました。祖父が拉致されたために、家族は塗炭の苦しみをなめました。祖母は毎日涙で顔を濡らし、このうえないほどの苦痛から、もう少しで命を失うところでした。あのような惨状を思い起こすと、私は憤慨せずにはおれません。