楊明安

川口036 〔本人証言、2004年6月、偃師市で聞き取り(張忠杰)〕

 ・1944年の夏、同村の段新立と一緒に抗日遊撃隊に加わった。村と村民を守ることが任務だった。七月頃、裏切り者の手引きによって我々の部隊は日本軍に包囲され、戦闘の中で六十人ほどが捕虜になった。我々は腕を縄で数珠つなぎにされ、洛陽の西宮兵舎まで連行された。我々六十人は一つの部屋に押し込まれ、大小便のときも外へ出ることは許されなかった。銃を持った日本兵に厳重に見張られていた。毎日、餓死者や病死者が出たが、外に引きずり出されて捨てられていた。この世の地獄だった。
 ・その後、黄河を渡り、有蓋貨車で済南の新華院まで運ばれたが、そこはもっとひどいところだった。その強制収容所では、一日二食のみ、床板の上に直接寝かされた。
 ・日本に行く船では、船倉の鉱石の上に寝かされた。食べ物は生煮えのトウモロコシで作ったマントウだったので、みんな下痢をした。飲み物は海水だけ。二人が船中で亡くなったが、日本人は死体を引きずっていって海に捨てた。
 ・大阪の宿舎の出入り口は日本の警察官に見張られていたので、自由に外に出ることはできなかった。埠頭で、日本が中国から奪ってきた小麦、コウリャン、トウモロコシなどを船から下ろす仕事をさせられた。五十キロもある鉄の塊を一人で運ばされたこともある。疲れても途中でやめることはできない。現場監督が木刀で殴りかかってくるからだ。
 ・わずかな食料で重労働をさせられるので、病死する人や餓死する人が続出した。ある四川省の人は、現場で機械が落ちてきて、下敷きになって圧死した。