楊喜貴

築港[別]1 〔本人の証言、1996年2月証言。1996年5月5日河北大学より受け取る〕

 ・1942年私は軍に加わった。1944年、(河北省)無極県馬古庄村で敵に追い散らされ、捕まってしまった。そのあと私たちは無極県の憲兵隊に閉じ込められ、毎食が杓子にひとすくいの飯だけだった。一回目の尋問では、服を脱がされ縛り上げられて、水に浸した麻縄で鞭打たれた。私の背中は血みどろになり、気絶させられた。二回目の尋問では、木の板に縛り付けられて、一人が私の鼻をしっかりつかみ、もう一人が私の口からトウガラシの水を流し込む。そのあと足で私の腹を蹴りつけ、トウガラシの水は鼻から出てきて、また吸い込まれる。私はまた気絶した。憲兵隊には二十日ほど閉じ込められていた。
 ・石門捕虜収容所では、食事は毎日小さなビンズ二個、もしくは杓子にひとすくいのコウリャン飯。食事のときは、二人を向かい合わせひざまずかせて食べさせていた。全員そろってひざまずかなければ食べさせないし、すぐに殴りかってくる。毎日重労働をさせられた。
 ・塘沽を経て大阪への船の中、田入海という人が病気で動けなくなっていた。日本人は彼を藁袋に入れて、さらにその藁袋に石炭を詰め込んで、海に投げ込んだ。
 ・大阪の大阪船舶株式会社での生活では、「抑圧あるところには反抗あり」だ。私たちの反抗の方法は、一つは消極的ストライキで、もう一つは、日本が中国から奪ってきた鉄鋼、また日本の軍用物資や食糧などをこっそりと海に投げ込むことだった。
 日本の敗戦後、汽船に乗って天津に帰ってきた。天津の北洋大学に三日ほどいた間に手続きを済ませ、「中国人俘虜」と書かれた腕章をもらった。そして天津から汽車に乗って郷里に帰ってきた。家に帰ったときは、一銭の金も持っていないし、何の持ち物もなかった。