ヨウ(公の上のハがノ)玉珠[事業場名簿で公玉珠]

築港180 〔ヨウ(公の上のハがノ)銀庚(子)の証言、証言日不明。1996年5月5日河北大学より受け取る〕

 ・父は東亭村(河北省定県)の農民協会の主任だった。車村で拉致され、むごたらしい拷問を受けた。太い梁に吊されて鞭で打たれたり、熱した焼きごてを押しつけられたり、口から冷水を流し込まれたり、息も絶え絶えになるほど殴られたりした。五、六回は気絶している。日本の憲兵どもは我が家のあらゆる物を残らず略奪した。食糧をすべて奪い、ロバを引っ張っていった。銃剣を祖父に突きつけて、肥えたブタ、掛け布団、敷き布団、衣服や身の回りの品、一切合切を奪い去った。今の金に換算すると一万元は下らないだろう。父は東亭で尋問された後、定県に送られ、次は石家荘の石門俘虜収容所に移された。その後、天津の塘沽に連れて行かれた。
 ・塘沽から汽船に乗せられて日本に運ばれ、日本の大阪の埠頭で、貨物船から荷を下ろす仕事をさせられた。毎日朝から夜まで働かされ、24時間休まず働かされたこともしょっちゅうあった。わずかな食事しか与えられず、家から着ていった服がボロボロになっても替わりの服はもらえず、靴さえなかった。工事現場の小屋で寝かされていた。冬になると、寒くて一晩中寝付けなかった。賃金は一銭も支給されていない。そのうえ、現場監督からしょっちゅう殴られていた。父たちは牛馬にも劣る生活をさせられていたのだ。
 ・父は45年10月4日に帰国しました。天津の塘沽で船から下りて、無料で乗れる汽車に乗って家に帰ってきた。帰国時には何も持ち帰ってはいない。着ていた服も連れ去られたときと同じ服で、もうボロボロになっていた。