楊延峩 [事業場名簿で揚延峩]

築港138 〔楊金洪(子)他の1996年4月1日付け手紙(河北大学経由)〕

 ・楊延峩は村の四旅の旅長をしており、抗日青年先鋒隊の隊員でもあった。1944年8月9日の夜、八路軍に食料を届けようと準備をしているときに、村役場で捕まった。縛られたまま龍華の拠点まで歩かされそこに6日間監禁された。日本人憲兵による鞭打ち、水責め等の拷問を受けた。32才だった。
 ・夫を救い出すために楊延峩の妻は虚弱な身体を引きずりながら至る所を奔走し、家や土地5ムー、食料3千斤余りを売り果たしてしまった。こうした中、一番下の娘・楊桂貞は餓死してしまった。
 ・大阪港において、日本人に監視されながら貨物船の荷役をやらされた。毎食2つの黒いマントウと水一杯だけ支給された。服は支給されなかった為に冬になると麻袋を身に纏って寒さを凌いだ。宿舎はじめじめして衛生的に劣悪だった。
 ・毎日15、6時間にも及ぶ労働を強いられた。如何なる報酬もなく、少しでも仕事が遅いと日本人に殴られた。
 ・帰国時、日本側は如何なる生活用品も、もちろんお金も支給しなかった。
 ・日本での苛酷な労働と劣悪な生活環境によって楊延峩は重い肺病に犯され、帰国後ほとんど労働能力を失っていた。病死する1977年6月19日まで薬に頼って辛うじて生き長らえてきた。