禹正合

川口027 〔本人証言、2002年1月、原陽県で聞き取り(張忠杰)〕

 ・1944年7月、陽武県で拉致された。日本兵は銃で脅しながら私たちを汽車に乗せた。そして、山東省済南の新華院というところまで運んでいった。
 ・新華院は実際には大きな監獄のようなものだった。そこに閉じこめられている人は一万人以上いた。食べ物はアワだった。一日につき小さな一桶を二十五人で食べるのだから、いつも空腹だった。着替える服もない。病気になっても誰も構ってはくれない。死ねば、車で運び出されていった。死体を運び出すためだけの車が、三台用意されていた。
 ・8月25月に青島から船に乗せられた、船の中で丸十日を送る間、毎日一人に一個の小さなマントウしか配られなかった。
 ・大阪では、日本人がやれと言う仕事は何でもやらなければならなかった。何時までにやり上げろと言われれば、それまでに終わらせておかなければならない。日本人は、少しでも気に入らないことがあると、すぐに怒鳴ったり殴ったりした。
 ・船から下ろす荷は、塩も石炭も穀物もあったが、ある日、米を下ろしているときのことだった。米袋を肩に担いで運ぶのだが、一袋が百キロもあるし、おまけに数回も往復しなければならない。私は途中で本当に持ちこたえられなくなって、倒れ込んでしまった。包みが破れて、中の米が散らばった。飢えに耐えきれなくて、私はそれをつかみ、一口ほおばった。すると監督が飛んで来て、めった打ちにされた。
 ・大阪で一年余り、正義も道理もない暗い日々を堪え忍んだが、一銭の金も受け取ることはなかった。新華院を出るとき、日本の将校は「日本に行って仕事をすれば、食べ物もあるし住むところもある。おまけに給料も出る」と言っていたのに。