張慈金

安治川047 〔本人証言、2005年秋、原陽県で聞き取り(張忠杰)〕

 ・1944年6月、私は陽武県城で開かれていた市に瓜を売りに行った。県城の北関駅の近くで瓜を売っていたときに、銃を持った4~5人の日本兵に拉致されて、その日のうちに汽車に押し込まれ、山東省済南まで運ばれた。汽車をから降ろされるとそこは新華院だった。すぐに監禁され1ヵ月余り訓練を受けた。食べ物も住む場所も非常に劣悪なうえに、殴られたこともあった。
 ・1ヵ月後、400人に衣服が1着と綿毛布が1枚ずつ配られて、青島へ向かう汽車に乗せられ、青島に3日間留め置かれた。
 ・無理やり乗せられた船の中では、トウモロコシの粉で作った生煮えのマントウと、わずかなニンニクしか与えられず、飲み水は海水だった。多くの人は船酔いのために倒れ込んでいった。
 ・船は7日余り海上を走って、大阪の港に接岸した、船から降ろされた。2日後、日本人に率いられて埠頭まで行き、そこで仕事が始まった。やらされた主な仕事は、大きな船から石炭を下ろし、小さな船まで運ぶことだった。ときには塩や米や大豆などを荷下ろしすることもあった。食べ物は毎回質の悪い小麦粉で作った小さなマントウが1個だけで、飢えを満たせる量ではない。空腹の中で毎日きつい労働をやらされ、みんなはくたくたに疲れきっていた。おまけにしょっちゅう殴られたり怒鳴られたりした。
 ・今でも忘れられないのは、粗塩を下ろす仕事のほうに回されたある日、体の具合が悪く高熱のために朝起きるのが少し遅くなった。すると、1人の日本人がいきなり棍棒を振り上げて頭を目がけて殴りかかり体をめった打ちにした。私が気を失ってから、ようやく殴る手を止めたようだった。同郷の魏家臣と蘆伝法が「張慈金、目を覚ませ、目を覚ますんだ」と叫び、私は息を吹き返した。意識を取り戻し、頭を触ると血だらけになっており二人に頭をくるんでもらった。すると、またその日本人がやって来て、塩下ろしの現場に行かせようと大声でべらべらまくし立てた。すぐに塩を下ろしに行け、ぐずぐずしたらまた殴るぞと言った。私は彼らと一緒に大きな船まで塩を下ろしに行くしかなかった。
 ・またあるとき、便所に用を足しに行っていると、便所に行く時間が長すぎると言ってひどく殴られた。そのうえ罰として食事を抜かされた。
 ・また何度もカーボン工場に連れて行かされて、炭素を作る仕事までやらされた。ときには古い船を解体する仕事などにも行かされた。毎日の労働時間は10時間以上だ。
 ・労働に見合う待遇を受けるようなことは一切なかった。賃金は言うまでもないこと。この1年余りの期間に、数十人が虐待を受けて死んでいった。6~7人が目の見えない体にさせられた。
 ・私は青年時代に昼も夜もなく埠頭できつい仕事をさせられいつも空腹状態だったので、体に障害が残ってしまい、帰国してからも働く力は落ちていく一方で、どんな仕事にも就けなくなった。