張天永

川口072 〔曲転(妻)の証言、2000年5月、偃師市で聞き取り(張忠杰))

 ・1944年、夫たちは地方の部隊に加わっていた。ある日、戦闘が始まり、夫たち五十人余りが日本軍に捕まった。数珠つなぎにされて、洛陽の西宮兵舎に連れて行かれ、監禁された。
 ・兵舎では、大小便のときも外へ出ることが許されず、日本兵の見張りは厳重だった。多くの人がそこで餓死し、病死した。
 ・有蓋貨車で済南に運ばれ、大きな建物に押し込まれた。そこでは着の身着のまま、いつも殴られ、一日二回のわずかな食事で、誰もが飢えに苦しみ、骨と皮に痩せこけていた。
 ・大阪では朝早くから夜遅くまで、船から岸に石炭を下ろす仕事をさせられた。天秤棒で一度に五十キロ以上の石炭を運ぶ。穀物や鉄を運ばされたこともある。仕事が少しでものろいと、現場監督が棍棒で殴りかかってくる。マントウ一個の食事では力が出るわけがない。それでも重労働をせねばならず、病気になっても医者に診てはもらえない。多くの人が日本の大阪の地で亡くなったそうだ。
 ・夫は日本で働かされていた間、飢餓と過労に苦しんだため、帰国後も壊れた体が元に戻ることはなかった。大病をして起き上がることができなくなり、1977年2月22日に死亡した。