張修正

安治川138 〔張忠杰(子)の証言、1996,08/17、北京での聞き取り〕
 〔張忠杰(子)の証言、1996,12/16付け手紙〕
         〔本人証言、原陽県で聞き取り、1999年12月整理(張忠杰)〕

 ・当時父は日常生活品のような物を小売りしていて、1944年7月に陽武県城で日本軍に捕まった。その話を今年になってはじめて聞くようになった。  ・北関の駅の中に監禁され、翌日捕まった100人以上の人たちと一緒に有蓋貨車に乗せられ、山東省済南の新華院に送られた。
 ・新華院では1ヶ月あまり苦しい労働をさせられた。ずっと空腹で、着替える服もなく、日本の監督から殴られたり怒鳴られたりしていた。毎日山へ登って穴を掘り、ガソリンを埋めていた。1日10数時間も働かされた。1ヶ月後、日本人が全員を集合させ、私たちを「東京」へ仕事に行かせると言った。そのとき私たちはみな大変喜んだ。なぜなら、「東京(開封)」は家から近いし、これで新華院のような人殺しの場所から離れられると思ったからだ。まさか日本へ連れて行かれてひどい仕事をさせられるとは、誰一人思ってもいなかった。まったく、火の穴から飛び出せたら今度は火の海に飛び込むようなことになったのだ。
 ・私たち数百人は日本人の銃で脅されながら汽車に乗せられ、青島に送られた。その2日後に船に乗せられて日本に運ばれた。荒波のために、船の中では多くの人が船酔いし、吐いたり下したり気を失ったりしていた。毎日1人1個しかないトウモロコシの粉で作ったマントウとニンニクとで命をつないだ。おおよそ7日間で九州に着き、そこで船から降りた。つづいて小さな船に乗り換え、大阪まで行って上陸した。それから木造の建物に住むことになった.
 ・数日も経たないうちに隊が編成され、私は第4隊に入れられた。各隊は200人編成で、隊長は呉明海(原陽県合地鋪村の人)だった。同じ隊には他にも、毛月秋、呉春来、常保国、趙伯英、田風雲らの人たちがいた。
 ・大阪では1日中船から石炭を一度に50キロもの石炭を担がされた。  ・朝の6時に食事が出たが、腹一杯になる量ではなかった。午前の仕事が終わると、埠頭で1人1個の小さなマントウを食べ、わずかな水を飲んだ後。すぐにまた仕事が始まり、1日10数時間の労働だった。
 ・食べ物と飲み物がきわめて少量のこの期間に、全員骨と皮ばかりにやせこけた。また、病気になっても治療してもらえず、亡くなる人も出てきた。劣悪な環境のもとでも、警察はやはり厳重に見張り、夜寝るときにも部屋の入り口にはずっと見張りが立っていた。
 ・日本から帰ってきた時にはすでに、父も母も亡くなっていた。お金もないし、家族も誰もいないのでどうしようもなかった。それで乞食のように物を貰いながら生きてきた。
 ・父は1960年に40歳になってやっと結婚した。1963年に私の姉が生まれ、1966年に私が生まれたが、子どもたちの世話はすべて母がした。その頃父は、日本へ連行されていた時期の後遺症が残っていて、いつも呼吸が苦しい状態にあった。父は生産大隊で20年余り隊長をやっていたが、月々の収入は薬代と注射代にすべて消えてしまう。
 家の年ごとの収入が増えていくにつれて、父の病状はますます悪化していった。私と姉とは小さい頃から家事の重荷を担い、父の治療のために、食べる物も切り詰めて節約してきた。こんな状況だから、学校へ行く機会にも恵まれず、姉は中学へは行けなかったし、私も家が経済的に苦しい理由から、中学1年で勉強をあきらめて、農業に就いた。
 ・日本で働かされていた間に患った病気などで、帰国後、今でもいろいろな病気で苦しんでいる。心臓病、肺気腫、気管支炎。痰が出る。ほとんど呼吸器系の病気で、薬代とか治療費が毎月400元から500元くらいかかる。これまではお金がないから安い薬を飲んでいたが、全然利かないので、最近は高い薬も飲むし、注射もしないと持たない。もうベッドから降りられない状態だ。立ち上がって少し歩いただけで苦しくなる。天気のいい日は椅子に座らせて、そのまま外に運んでやって、少しでも陽に当たらせるようにしている。働ける力を失ったために、生活はきわめて困難となっている。