張守義

川口025 〔本人証言、1999年8月、原陽県で聞き取り(張忠杰)〕

 ・1944年7月に陽武の県城で仕事をしていたときに日本軍に拉致された。日本兵は私たちを県城の北関駅まで引っぱっていって、そこに監禁した。
 ・翌日、私たちは有蓋貨車に押し込まれた。銃を構えた日本兵が見張る中、徐州を経て山東省の済南に到着し、貨車から下ろされて、日本兵に見張られながら新華院まで連行された。
 ・新華院の中は警備が厳重で、高い塀の上には幾重にも鉄条網が張り巡らされていた。私たちはじめじめした大きな建物に入れられた。外ではやはり日本兵が見張っていた。新華院に入れられていた間じゅう、ずっと腹ぺこで、おまけにしょっちゅう殴られていた。病気になった人がいても治療はしてもらえず、死ねば引きずり出されて、山の谷間に捨てられていた。
 ・日本へ向かう船の中では、食べ物もごくわずかで、ニンニクをかじることだけが飢えをしのぐ手段だった。
 ・川口でやらされたのは、埠頭で貨物船から荷下ろしをする仕事だった。下ろした荷は、米、コウリャン、石炭などいろいろあった。食事は昼は埠頭で食べたが、量が少ないので、私たちはいつも腹をすかせていた。それでも体力をはるかに超える重労働をしなければならず、多くの人が病気になった。
 ・過酷な労働が原因で無くなった人を二人ほど記憶しているが、その一人は涙を流しながら死んでいった。もう一人は陽武県の婁紀民さんだ。
 ・苦労をなめ尽くし、さんざんひどい目に遭わされたというのに、私たちは一銭の金も受け取ってはいない。

   〔以下、張治合(子)の証言、2010年10月30日付け張治合の「陳述書」より抜粋〕
 ・父は2009年10月18日に亡くなった。父からは日本へ強制連行されたときの話を時々聞かされていた。父が語ったことをノートにも書き取っているし、2007年には父が話す様子をビデオで録画もしている。
 ・川口の宿舎の中は湿度が非常に高く、おまけに当時は栄養失調状態だったから、そのために父たちは皮膚病に罹ってしまった。父の皮膚病は死ぬまで治ることはなかった。
 ・あるとき、父はあまりの空腹から、船内に満載されていたミカンを一個盗み食いした。それを日本人に見つかってしまい、父はこっぴどく殴られた上に、罰として一日食事抜きで働かされたそうだ。
 ・郷里に戻ってから、父は農作物の開発や研究をする国営の農業試験場のようなところに勤めていたそうだが、1960年代に文化大革命が起こってからは、戦争中の父の経歴に不明なところがあるということで検挙され、職場を追放された。それ以後はずっと農民として生きてきた。
 ・父が日本で罹った皮膚病は疥癬というかなりやっかいな病気で、症状は全身に及んでおり、年を取るにつれてだんだんひどくなっていった。雨が降る日などは特に苦しんでいた。私も父に付き添ってあちこちの病院を転々とした。なんとか治療できないものかと、遠い開封や鄭州の大きい病院にも付き添って行った。