趙子川 [事業場名簿で不明]

安治川 〔本人証言、2005年10月、原陽県で聞き取り(張忠杰)〕

 ・日本兵に拉致されて、1944年6月から1945年10月まで日本へ強制連行され、苦しい労働を強いられていた。
 ・私は、1944年6月陽武県の北関に瓜を売りに行き、北関駅付近で日本兵に拉致された。有蓋貨車に押し込まれ、日本兵が見張る中、丸一日かけて山東省の済南まで運ばれた。
 ・済南の新華院に入れられ、1ヵ月ほど訓練を受けた。ろくに食べ物を与えられなかったために、たくさんの人が死んだ。その死体は馬が引く荷車に積まれ、谷間まで運ばれて投げ捨てられていた。その後、訓練を終えた私たち400人余りに緑色の服と綿毛布と靴が配られ、一緒に青島へ運ばれた。青島に着いて2~3日後、日本人によって無理やり日本行きの船に乗せられた。船の中で食べさせられたものは生のトウモロコシの粉だったので、多くの人が腹を下した。船酔いのために、船倉に積まれた岩石の上に横たわったまま動けなくなっている人もたくさんいた。7~8日ほどで日本に着き、船から降ろされた、小舟に乗り換えて大阪労工所まで運ばれた。
 ・大阪では、400人が4つの隊に編成され、第1隊と第2隊が1つのグループ、第3隊と第4隊が1つのグループとして組まれた。毎日、現場の監督に船まで連れて行かれて働かされた。仕事は主には石炭を船から下ろす仕事と、その石炭を天秤棒で担いで岸まで運ぶ仕事だった。ときには粗塩や豆やトウモロコシなどの荷を下ろすこともあった。腹ぺこの状態で重労働をさせられ、みんな疲れ切っていた。それなのにしょっちゅう殴られたり怒鳴られたりしていた。
 ・今でもはっきり覚えていることは、ある日石炭を下ろす仕事をしていたとき、私が便所から戻ってくると、日本人は便所に行っている時間が長すぎると言って、私を殴った。またある日、包廠村の范守仁を殴っているとき、日本人は自分の手で殴るのが痛くなったと言って、私と范守仁を互いに殴り合わせた。私たち2人が殴り合うと、今度は私たちの力の入れ方が弱すぎると言って、終いにはまた自分の手で私たち2人をこっぴどく殴りつけた。
 ・埠頭で石炭を運ばされる以外に、ときにはカーボン工場に行かされ、炭素を作る仕事や、船の工場に行かされ古い船の解体などをさせられた。毎日の仕事は9時間以上で、ときには夜になっても引き続き働かされることもあったが、それに見合うような待遇を受けたことは一度もない。
 ・45年8月15日に日本が降伏するまでの1年の間に、6人が目を痛めつけられて盲目となった。