張新年

藤永田009 〔本人証言、1996年8月、北京市で聞き取り〕

 ・十六歳で遊撃隊に入り、十七歳で日本軍と戦った。1944年5月に大掃討があり、みんなバラバラになって逃げたが、逃げ込んだ村が日本軍に包囲されて、日本の憲兵隊に捕まった。二、三十人の農民と一緒に捕まり、二、三人まとめて縛られた。
 ・広平県へ連行され、ある学校に押し込められたが、食べ物がないので風呂の水を飲んだ。三日間何も食べられなかった。私の家は貧しかったが、母は息子が捕まったということで、わずかな土地を全部売り払って、三十八日間食事を届け続けてくれた。
 ・合計百人ぐらいが邯鄲まで連れて行かれたが、邯鄲に着いて一時間もしないうちに、五、六人が息を引き取った。食べ物は、トウモロコシの粉を水に溶かしたものを一日に一回のみ。
 ・後ろ手に縛られ、四人一組で縄につながれ、列車で石家荘を経て塘沽に送られた。
 ・塘沽の収容所では、逃亡できないように素っ裸にされ、小屋の中でうつ伏せになって寝るように言われた。体の向きを変えると殴られた。昼間も動くことが許されず、十数日間同じ姿勢を強いられた。食事は一日二回、トウモロコシの粉をひいた粥で、腐ったような臭いがした。トイレに行くにも許可が要る。許可なしにはどこへも行けない。
 ・南側の大部屋の人たちが暴動を起こした。銃声が聞こえた。殺されたのは五、六十人。銃で撃たれたり、鉄条網で感電死したり。死体を運ばされた。台車に乗せて運び、川に流した。
 ・日本に行く船に乗せられた。石炭を運ぶ船だった。船倉に押し込められた。腐ったトウモロコシの粉で作った粥を一日二回食べさせられた。食べるときだけ甲板に上がって外を見た。日本の軍服を着た者が十数人いた。
 ・一緒に捕まった親戚の人が、あまりに喉が渇くので、上に上がって椀で水をすくって飲んだ。見つかって殴り倒され、足で踏みつけられて頭に多くの傷を負った。
 ・河南省の人がある日いなくなった。自分で海に飛び込んだのか、あるいは日本兵に殺されたのかは分からない。
 ・藤永田では、ドリルで穴を開けたときに出る木くずの掃除や片付けをやらされた。鉄板運びは重くて持ち上げられないほどだった。
 ・宿舎は海に近いのでじめじめして、多くの人が疥癬になった。