趙三賢

築港099 〔趙争山・趙没耐(子)の証言、1996年1月14日。1996年5月5日河北大学より受け取る〕

 ・私の父趙三賢は、1944年5月、家(河北省無極県)で働いていたときに、村の望楼のあるトーチカから4人の傀儡軍が銃を手にして突然やって来て、彼らに拉致された。父は無極県にある傀儡の憲兵隊まで連れて行かれた。そのとき家には、母と10歳の姉、8歳の兄(趙没耐)、4歳になったばかりの私(趙争山)、そして2歳の妹がいた。私たちは4人兄弟。母は苦難に見舞われた父をなんとかして救い出すために、子どもたちのことも構わず、毎日朝早く出掛けて夜遅く帰ることも厭わずに、親類や友人に頼み込んで、つてを頼り、情にすがって贈り物をし、ありったけの家財を売り渡してでも父を救出することに奔走した。尊敬に値する母は、気をもみ心を砕きすぎたせいで、病に倒れてしまった。結局、三千元の金を準備することができず、父は石家荘の南兵営に送られてしまった。人も財産も両方ともなくしてしまったのだ。
 ・日本の大阪では荷下ろしの仕事をさせられた。警察警備隊が見張っていた。(山下、中元という名前)。朝現場に出れば一日中、夜まで働かされた。食事は質の悪い小麦粉で作ったマントウが2個だけ。空腹状態で、それでも重労働をしなければならない。しょっちゅう怒鳴られたり殴られたり。自由がないのは犯罪者と変わりなかった。けがをしても病気になってもほったらかしにされ、日本侵略者の怒りやいらだちをぶつけられ続けていた。体の弱い労工たちにさえ、冬に入っても綿入れ一枚配られない。金を受け取ったことなど一切ない。