丁サ(俊のムが鬯の上)貨

築港101 〔丁彦中(子)1996年2月4日付け手紙(河北大学経由)〕

 ・1944年5月25日、21歳で日本軍に捕まった。夜がまだ明けきらない頃、日偽軍が私たちの村にやってきた。日本軍が村に入ると皆は南の方に向って逃げ出した。先頭を走っていたのは同じ村の丁小文と言う人で、彼は日本軍の包囲網に入ってしまいその場で銃剣で刺し殺されてしまった。彼の後には十数人が続いていたが、その中には私の父・丁サ貨と丁保忠、丁大秋、丁連生がいた。後の人は、先頭の人が刺し殺されたのを見て恐ろしくて逃げるのをやめた。父は軍犬をけしかけられ咬みつかれ、父は死ぬまでその時の傷が残ったままだった。日本軍は捕まえた人々を「憲兵隊」に連れて行った。そこで、鼻をつまんで口から辛子粉が混ざった水を流し込むなどの拷問を受けた。
 ・南兵営(石門捕虜収容所)に着いた後、着ていた服を全て脱がされ、靴さえ脱がされたうえに、水桶で液体を全身にかけられた。消毒ということだった。皆は集められてある暗い建物の中に入れら、湿気た床に寝かされた。毎日2食で一食につき4両の高梁飯。その上重労働にも駆り出された。
 ・大阪では重労働を強要し、24時間ぶっ続けの時もあった。毎日2食で、冬でも綿入れの服を支給せず単衣のまま、仕事の時はボロ毛布を身体に巻き付けて出かけ、作業が始まるとそれを脱いで仕事をした。ある時、荷役をしていたとき、ちょうど中国から奪ってきた落花生を運んでいたとき父がそれを少し食べるのを日本人に見つかり、看守が父に殴りかかった。父は気を失った。目覚めたとき足が動かなくなっていた。日本人は治療しないばかりか、更に重労働を強制した。足が痛んで動きが遅いと更に殴った。その時以後、父の足は一生涯不具になってしまった。
 ・父が捕まった後、祖父、祖母は父を救うために家にあったもの全てを売り払い、大金を使って、人づてに四方八方奔走したが、何の成果もなかった。その為に祖母は病気に倒れ数か月もしない内に死んでしまった。