張顕 [事業場名簿で張賢]

藤永田068 〔本人証言、1996年1月、保定市で聞き取り〕

 ・民兵だった私は1944年9月、元寨村で日本軍に包囲され捕まった。広平県の大学の中にあった刑務所のようなところに入れられ、その晩すぐに拷問されて、さんざん殴られた。頭を殴られて血だらけになった。三十数人ずつ、小さな部屋に監禁された。便所に行くときも手錠を掛けられていた。食事が出なかったので、家族が差し入れてくれた食べ物でやり過ごした。家族からの差し入れがない人は、食べ物がなくて餓死した人もいた。六、七人が死んだと思う。
 ・そこに三十八日間監禁された後、縛られたまま邯鄲に連れて行かれた。そこから汽車に乗せられて塘沽に連行され、四日後に日本に行く船に乗せられた。船の中での食事はわずかな量のトウモロコシだけ。水もほんの少ししかくれなかった。そのため、飢えや渇きで死ぬ人が出た。百六十何人かが船に乗せられて、日本に着いたときは、たしか百五十六人しか残っていなかった。つまり、船の中で何人かが死んでいる。
 ・日本に着いて、藤永田造船所というところで働かされた。作業場には日本の一般の労働者もいて、一緒に働いていた。アメリカ人らしき人たちもいたが、彼らは銃を持った日本兵の監視のもとで働いていた。彼らがやらされていた仕事は、砂利を積んだ手押し車を押す仕事だった。私はリベット打ちをやらされた。きつい仕事なので体が痛んだが、そんなことに構ってはいられなかった。
 ・宿舎の周りには塀があり、自由に出入りできなかった。塀の高さは三メートルぐらいで、赤レンガでできていた。塀の上には鉄条網が張ってあった。鉄条網には電気が通っていると大隊長が言っていた。
 ・日本に行ってから一銭のお金ももらっていない。