張学

川口054 〔本人証言、2004年6月、偃師市で聞き取り(張忠杰)〕

 ・1944年の夏、村の若者たちが抗日遊撃隊に加わった。ある日、数十人が他村で開かれた会議に参加していたとき、裏切り者が情報を漏らしたために日本軍に包囲され、抗戦したのだが弾丸が尽き、六十人ほどが捕らえられた。我々は逃げられないように縄で数珠つなぎにされ、洛陽の西宮兵舎に連行された。
 ・西宮では一つの部屋に閉じこめられ、外では日本兵が見張っていたので、大小便をするときでさえ外に出ることは許されなかった。一日二度、トウモロコシの粉を一つかみと汚い水が与えられるだけだった。多くの人が病気になり動けなくなったが、治療されないから死者が続出した。死者が出ると、日本兵が引きずり出して、兵舎の敷地にある井戸に投げ込んでいた。
 ・その後、有蓋貨車に乗せられて山東省済南に運ばれ、下ろされると、多くの日本兵が銃を持ち、シェパード犬を連れて両側を見張る中を歩かされ、我々数百人は大きな建物に押し込まれた。そこは強制収容所だった。四方は高い塀に囲まれ、塀の上には電気の通った鉄条網が張りめぐらされていた。四隅には日本兵が見張りに立つ望楼があり、ものものしい警備がされていた。少しの自由もなく、食事は一日二回、トウモロコシのマントウだけなので、飢え死に寸前の状態だった。夜寝るときも見張りが立っていて、大小便も報告しなければならず、動くことは絶対に許されなかった。馬車がしょっちゅう死人を乗せて谷に捨てに行くのを、この目で見ている。
 ・日本に向かう船には数百人が乗せられ、船倉の鉱石の上に座らされた。波が高いので、多くの人が船酔いになり、吐いたり下したり。加えて、飲み水も食べ物もないので、大部分の人が横たわったまま動けなくなっていた。
 ・大阪の埠頭での仕事は、船から貨物を下ろすことだった。日本が中国から奪ってきた小麦、トウモロコシ、大豆、コウリャン、ときには鉄の塊もあった。くたくたに疲れても食事はごくわずか。少しでもゆっくり運ぼうとすると、すぐに日本の現場監督が飛んできて棍棒で殴りつけた。死ぬか生きるかの毎日が、日本の降伏の日まで続いた。半世紀過ぎても、心に残るこの暗い影が消え去ることはない。