杜玉中 [事業場名簿で杜玉忠]

川口151 〔杜連元(子)の証言、2007年3月、原陽県で聞き取り(張忠杰)〕

 ・私の父は1944年6月頃、県城で商売をしていたときに、県城内に駐屯していた日本兵に拉致され、同時に拉致された数人とともに、縄で縛られて県城の北関駅の大きな建物の中に閉じ込められました。翌日また数人が連れてこられ、一緒に閉じ込められました。北関に五日ほど留め置かれた後、有蓋貨車に乗せられたのですが、どこに連れて行かれるのか分かりませんでした。貨車の中では各車両に銃を持った日本兵が立ち。父たちが逃げ出さないように見張っていました。そのあと貨車が止まりましたが、そこは徐州駅だったそうです。しばらくして貨車はまた走り出し、今度は山東省の済南に着きました。父たちは貨車から下ろされ、塀で囲まれた広い敷地まで連れて行かれました。
 ・そこは済南の強制収容所でした。監視が非常に厳しく、まったく自由を奪われた状態だったそうです。食事はごくわずかしか与えられず、毎日死者が出ていたそうです。夜は特に監視が厳しく、外に大小便に行くことさえ許されませんでした。およそ一ヵ月ほど経った頃、日本人は若くて力のある数百人を集めて訓示を垂れ、その一人一人に服一着を配りました。そのあと父たち数百人は汽車に押し込まれて青島まで運ばれました。青島で一夜を明かした後、翌日には青島の埠頭に止めてあった大きな船に乗せられ、祖国から引き離されたのです。
 ・大阪で父は第一隊に入れられました。毎日、埠頭に連れて行かれて働かされました。船から荷を下ろす仕事が特に多く、一日十数時間も働かされていました。それなのに食べ物の量は非常に少なく、衣服が新たに配られることもまったくありませんでした。仕事の速度が少しでも遅いと、日本の現場監督が問答無用に棍棒を振り上げて殴りかかってきます。父は、自分も何度かひどく殴られたことがあると言っていました。それはすべて、仕事が少しのろかったためだけに殴られているのです。病気になったとしても治療などしてもらえません。死んだ人は引きずり出されて火葬されていたそうです。
 ・父は祖国に帰ってきましたが、日本の埠頭で働かされていた間日本の現場監督に何度もひどく殴られていたせいで、体に大きな損傷を受けていました。家に帰り着いた後、二度と農作業ができない体になっていたのです。年齢を重ねるほどに体の衰えはひどくなり、もはや薬でなんとか保たれているような状態でした。そして、ついに病にむしばまれて亡くなってしまいました。