沈植堂 [事業場名簿で申景瑞]

安治川055 〔本人証言、河南省獲嘉県で聞き取り、2000年6月25日整理(張忠杰)〕

 ・1944年、私は親戚回りをしているときに日本人に拉致された。拉致された人々は洛陽の西宮に集められたが、西宮での数日間で多くの人が亡くなった。死んだ人たちはみんな井戸の中に投げ入れられた。数日後、日本人によって汽車に押し込められ、山東省済南の新華院に送られた。
 ・新華院に着くと、監視はさらに厳しくなり、食べ物は少なく、殴られてばかりいた。労働はあまりさせられなかったが、よく体操をさせられた。
 ・1ヶ月ほどしてから、私たちは汽車に乗せられ、青島へ送られた。それから船に乗せられ日本に連れて行かれた。船に乗る前に緑色の服1着と木綿の毛布1枚が支給された。船に乗って7日ほどしてから、日本のどこかの港に着いた。それからまた船に乗せられて、大阪の安治川に着いた。船を降りてから風呂に入れられ、消毒され、服が1着配られた。
 ・安治川に着いて2日後に仕事が始まりました。石炭を船から下ろしたり担いだりする仕事で、担ぐ石炭は50キロあまりの重さだった。1日10数時間働かされた。私たちが働いていた場所は、海底トンネルからそれほど離れていない場所だった。西側には爆弾工場があり、北側には製鉄工場がありました。他のことはあまりはっきり覚えていない。働かされていた期間は、食べ物も少なく、寒さをしのぐ服もなく、ひどく殴られてばかりいた。毎日牛馬にも劣るような生活をさせられていた。