陳安仁

安治川088 〔本人証言、2001,05/04、偃師市で聞き取り(張忠杰)〕

 ・民国30年(1941年)に中途退学して、15歳で国民党に兵隊として買われた。家が貧乏で、姉と妹と兄たち5人で暮らしていくのは困難だったからだ。国民党第15軍団第65師団野戦病院で看護兵になる勉強をした。1944年4月、洛陽作戦の際に捕虜になった。捕虜になった後、洛陽の西宮の創造兵舎というところに入れられた。
 ・洛陽から懐慶府に連行される途中、孟津で数人が脱走し、日本人の銃で3人が撃ち殺された。その後日本人は洛陽から機関銃中隊を送り込んできたので、逃げることもできずそのまま河北の懐慶府まで連れて行かれた。
 ・懐慶府で有蓋貨車に乗せられ開封まで運ばれた。そこに一晩留め置かれた後、今度は山東省済南の新華院に連れて行かれた。新華院には1ヶ月余りいたが、毎日早朝から、走らされたり、体操をさせられたり、日本語を勉強させられたりした。毎日アワの飯を食べさせられ、1食が小さな1碗だけだったのでいつも腹ぺこだった。
 ・その後新華院から青島まで連れて行かれた。日本人は常に銃を構えて見張っていた。
 船に乗ると、日本兵は私たち400人を船倉に閉じこめた。船倉内は石がぎっしり積まれていた。私たちはその石の上に座らされた。船は針路をあちこちに変えながら海上を進み、10数日後にようやく日本の下関に着いた。
 ・船から降りて、私たちは服を脱がされ、消毒風呂に入れられ、身体検査をされた。そのあと4人ずつ一緒に半身写真を撮られた。写真を撮られてから番号を付けられたが、私は90番だった。それ以後、働かされるときはすべて番号で呼ばれ、名前を呼ばれることはなかった。
 ・私たちの労働の大部分は石炭を下ろすことだった。大きな船から小舟に石炭を下ろすのだが、非常に汚い仕事だった。夜になって仕事が終わるころにはみんな真っ黒になっていた。吐くつばも真っ黒だった。ときには大豆やコウリャンや米などを下ろすこともあった。食事は米の飯や大豆のビンズで、働いているときは1日3食あったが、病気になると2食に減らされた。みんな腹ぺこで、着るものもなく、いつも殴られたり怒鳴られたりしていた。日本語がしゃべれないので、何を言っても分かってもらえず、多くの人が殴られていた。病気になって亡くなった人が10数人いました。
 ・7月ごろになると、大阪上空にたくさんの偵察機が旋回するようになった。1ヶ月ほど経ってから、200~300機が大阪を爆撃し始め、至る所が火の海になった。海上が封鎖されたので、埠頭での仕事はなくなり、日本人は私たちを倉庫で働かせるようになった。毎日荷物運びをしたり、空襲で壊れたものを運び出したり、残ったものを整理したりしていた。