鄭建華[事業場名簿で鄭黒子]

築港009 〔鄭生才(子)の証言、証言日不明。1996年5月5日河北大学より受け取る〕

 ・その当時、私はまだ幼かったが、大人たちから聞いたところでは、父は1944年8月に家(河北省元氏県)で農作業をしていたときに拉致されたそうだ。父が拉致されて、家では誰も農地の世話をする者がいなくなったので、田畑は荒れ放題になり、物乞いをして生きるしかなった。父は拉致された後、まず元氏県の城内の憲兵隊で拘留されて取り調べを受けた後、石家荘南兵営の労工訓練所(石門俘虜収容所)に回された。天津の塘沽に送られて船に乗せられ、船は9月に日本の大阪港区八幡屋四十一番地に着いた。そこでは日本人のために汽船から荷下ろしをする仕事をさせられた。食べる、住む、着るなどの面で非人間的ないじめを受けた。苦労を共にした仲間たちが毎日死んでいった。父の病状も重くなったが、仲間たちが面倒を見てくれたので、日本で死ぬことからはなんとか免れた。
 ・痛めつけられた病身の父の状態はますますひどくなったので、父は魏村の孫国老(両目とも失明)と一緒に船で送り返され、天津の塘沽で下船して助け合いながら家に帰ってきた。〔編注:途中疾病送還〕
 ・しかし帰国後間なしの1948年2月11日に病没した。1922年8月14日に生まれ、享年26歳に満たない。