朱葛松 [事業場名簿で未葛松]

川口174 〔朱愛連(娘)の証言、2006年12月、原陽県で聞き取り(張忠杰)〕

 ・父は家の暮らし向きが大変だったので、やむを得ず外に出て小さな商いをして暮らしを保っていたのだが、1944年の秋、県城からあまり離れていない場所で日本兵たちに拉致され、北関駅に閉じこめられてしまった。他の拉致された人たちと一緒に、そこから汽車に乗せられて山東省の済南に運ばれ、その後、青島から船に乗せられて日本に連行された。
 ・父は日本で働かされていた間、これ以上ないほどの苦しい目に遭わされた。毎日、埠頭で船から荷下ろしをさせられ、一日十数時間働かされていた。腹を満たすほどの食事を与えられたことなどなく、病気になっても診てはもらえず、数人が病死したそうだ。父たちが死のうが生きようが、日本の監督たちが顧みることなどなかった。あるとき、荷下ろしがのろいのは怠けているからだと言って、監督は棍棒を振り上げて父をめちゃくちゃに殴った。父の頭に開いた大きな傷口からは鮮血が流れ出た。それでも監督は包帯を巻いてくれようともしなかった。仲間たちがボロ布と紙を拾ってきて巻いてくれたが、監督はすぐに父を呼びつけ、また仕事に掛からせた。こうした日本人たちは、中国人を人間と見なしてはいないのだ。父たちは毎日牛馬にも劣る生活を強いられていた。
 ・父が拉致されたせいで一家は大黒柱を失い、家の暮らしはまったく当てがなくなった。祖父と祖母の息子を思う気持ちは切実だった。毎日泣き暮らしたあげく、ほどなくしてこの世を去ってしまった。父が戻ってきたときには、すでに一家は消滅したも同然だった。その後、親戚や友人の助けもあって、父はなんとか結婚することができたのだ。