朱元鳳  

安治川048 〔本人証言、2001,12/31、山東省ブン(さんずい+文)上で聞き取り〕

 ・1944年陰暦の6月、地方の遊撃隊に加わり、常に梁山一帯で活動していた。帰省していた時日本軍に包囲され200人の味方が捕まえられた。町に連れ戻される途中で大部分が逃げ出し、私たち40人余りが逃げおおせなかった。
 ・南部警察署に連れられ、3日間留め置かれた後、済寧の監獄に連れて行かれた。監獄に15日間入れられた後、?州の労働教育訓練所に連れて行かれた。
 ・労働教育訓練所では、1食1碗の粟のスープを飲むだけだったので、大変ひもじい思いをした。おまけに日本人からこっぴどく殴られた。このような12日間が過ぎた後、今度は有蓋貨車に乗せられ、1日かけて済南の新華院に運ばれた。
 ・貨車の中では全員が腕を縛られ、日本兵が銃を構えて見張りに立っていた。貨車から降ろされて、銃を構えシェパード犬を連れた日本兵が両側に立ち並んでいるなかを、とてつもなく広い敷地まで連れて行かれた。そこが新華院だった。
 ・そこは大変広い場所で、数メートルの高さの壁の上には何本もの電気鉄条網が張りめぐらされて、周囲にある監視塔には銃を持った日本兵が立ち、厳重な警戒がなされていた。
 新華院では毎朝新式の体操を2時間ほどやらせ、その他の時間は屋内に閉じこめられたまま動くことは許されなかった。仕事もやらされなかったが、食べ物はやはり1食1碗の粟のスープだけで、いつも腹をすかせていた。
 ・夜は大きな部屋に寝かされた。地面に板を敷き、その上に稲ワラを敷いただけのもので、全員がその上に寝かされた。大小便に行くときは報告しなければならなかった。さもなくば小警備隊の者が、1メートルほどの長さの黒と赤に塗られた棍棒を振り上げて殴りかかってきた。話しや寝返りを打っただけでも殴ってきた。全くこの世の地獄だった。
 ・新華院にいた十数日間、毎日のように馬が引く荷車で死人を外に運び出していた。中にはまだ死んでいない人も含まれていたが、一緒に谷に投げ込まれていた。聞いた話では、その谷には数万体もの遺体があり、谷は埋められて平らにされたそうだ。
 ・ある日、日本人は私たちを集合させて身体検査や血液検査を行った。病気を持っている者は要らないと、およそ400人が選び出された。全員に緑色の軍服と靴と綿毛布が配られた。日本人は、私たちを連れて行って仕事をさせると言い、そこに行けば腹一杯食べられ、ビルに住め、1日につき1元5角の銀貨がもらえると言った。そして、全員に番号が付けられ、私は50番がつけられた。具体的にどこに行くのかは知らされず、400人は汽車に乗せられて日本兵に見張られ青島まで運ばれた。汽車から降りると、2人ずつが1個の手錠でつながれて、海辺にある大きな監獄に閉じこめられた。そこに4日間いた後、船に乗せられた。そのとき初めて私たちは日本に行って働かされるのだということを知った。
 ・船に乗せられ船倉を見ると、岩石で埋め尽くされていた。その上に400人は座らされ、寝るのもその岩石の上だった。船では十数人の軍服を着た日本人が銃を構えて見張っていた。船の中で食べさせられたものは、トウモロコシの粉で作った半生のマントウが1回につき1個だけだった。海上は風波が強く、船が上下に大きく揺れ多数の人が船酔いに苦しめられた。船倉に横になったまま食べることも飲むこともできず、起き上がることさえできずにいた。船は十数日後日本のある港に接岸し、小さな汽船に乗り換えた。ある駅に着くと船を降り、今度は汽車に乗りようやく大阪の安治川労工所に到着した。
 ・私たちが住まわされたのは木造の建物だった。建物の両端に扉があり、中間が通路になっていて、その両側が板がけの寝台に横になっていた。2日後隊が編成され、1隊が100人で第3隊と第4隊は合わせられ200人が一緒だった。建物の両端には日本人が見張りに立っていた。建物の西の端に炊事場と便所があり、風呂は3メートルの幅があり、6人が同時に入れるほどの広さだった。便所の西側には鉄工所があり、南側には硫黄の倉庫があり東側は海だった。北側は倉庫だった。広場は海に面しており、大通りの下が川になっていた。その道幅は十数メートルはあった。
 ・毎朝1人に1個の質の悪い小麦粉で作ったマントウが配られた。たまにはおかずとしてジャガイモや漬け物が付くこともあった。昼は働いた場所で食べていた。配られる握り飯にはたまに海苔が付いていることもあった。夜になって宿舎に戻ると、やはりマントウ1個だけの食事だった。私たちはいつも腹をすかせ、寒さに震えていた。朝食と夕食は中国人が作り、昼食は日本人が作ったものを食べていた。炊事長は日本人だった。
 ・私たちの仕事は主に石炭を船から下ろすことだった。ときには日本が中国から略奪してきた大豆、トウモロコシ、鉄の塊を下ろすこともあった。後半の半年間は、数日間宿舎に戻されることなく、連続で船の上で働かされた。ひどいときには十数日間ずっと船から下りられないこともあった。食べるのも寝るのもずっと船の上、夜中の1時に握り飯が配られることもあった。少しでも仕事がのろいと、日本人の監督が鉄の棒を振り上げて殴りかかってきた。今でもよく覚えているのは、黄という名前の人が仕事中にちょっと手を止めると、日本の監督が鉄の棒を振り上げ腰を殴りつけ折られてしまった。黄さんは病院に運ばれたが、2日後に亡くなって火葬にされた。ビンタを張られるぐらいのことは、ほとんど全員が経験している。日本の監督は訓話を垂れて、しっかり仕事をしない者は黄のように死ぬことになるんだぞと言った。全く私たちを人間扱いしていなかった。
 ・済南の鄭という人は、日本人の悪口をちょっと言っただけで1メートルの高さの鉄の檻に1年間入れられ1日2食しか与えられず、骨と皮ばかりに痩せこけた。日本が降伏してから、ようやく檻から出された。
 ・点々と血痕の染みついた大阪の埠頭や現場や事業場で、ガリガリに痩せ細った私たちは、ついに日本降伏の知らせを聞いた。家にたどり着くと、母と妻と甥が一度にワッと泣き声を上げた。私が拉致された後、家にあるものを全部売り払って私を買い戻そうとしたのに、結局は人も家財も失ってしまったのだと語った。それからの日々を家族は物乞いをしながら生き延びていた。日本で労工として働かされていたころの苦しみ、そして我が家がこうむった損失を思うたびに、私は日本軍国主義が起こした戦争を憎まずにはいられない。