焦秋成

築港020 〔焦洪泉(子)の証言、1991年2月20日証言。1996年5月5日河北大学より受け取る〕

 ・1943年の4月頃、父は村(河北省安国県)の農民組合の幹部である焦銀会(健在)の依頼を受けて、八路軍のための銃器の買い入れに新集鎮(今の新集市)[編注:河北省辛集市かもしれない]まで行ったところで捕まってしまった。第六分区の通行許可書を発見されたことで、父は残忍な刑罰を受け、痛めつけられた。頭のあちこちに割られた傷痕が残っていた。まっさかさまに水瓶の中に頭を入れられたり、ふくらはぎを棒でぐいぐい押さえつけられたり……。それでも父は信念を堅く守って屈せず、自分は商売人だと言い張り続けた。20日余り経った後、父たちは石家荘の南兵営訓練所(石門俘虜収容所)に送られた。
 ・(大阪で)常に空腹で着の身着のまま、賃金などない。分配されたボロ毛布があったので、その真ん中に穴を開けて頭を突っ込んで体を覆い、腰には縄を巻いて、それを服の代わりにしていた。
 ・(帰国後)挫折と苦痛を受け尽くした父は、そのうえに肺結核を患い、50歳代で生活する能力を失ってしまった。私たちが労働点数を稼いで、金を借りたり食糧を借りたり、すべての面倒を見てきた。我が家の暮らし向きはずっと苦しいまま、1979年12月26日、父はこの世を去った。享年65歳。