曹学良 [事業場名簿で曹学領]

川口165  〔本人証言、2001年5月、偃師市で聞き取り(張忠杰ら三名)、
         (曹学良の右耳は聞こえない。右耳全体が焼けて失われている。)〕
〔本人証言、2015年7月26日付けの手紙〕  

 ・1944年5月17日、日本軍が偃師の県城に攻め込んできたときに捕まった。翌日、洛陽の西宮兵舎に送られ、三ヵ月余り監禁された後、有蓋貨車に乗せられて山東省済南の新華院に運ばれた。
 ・新華院に二十日余り入れられた後、汽車に乗せられて青島に運ばれ、そこから大きな木造船に乗せられた。日本に向かうその船の船倉には、ぎっしりと鉱石が積まれていた。私たち数百人はその上に座らされた。
 ・日本でやらされた仕事はずっと同じで、荷物の積み卸しや、石炭や穀物を下ろす仕事だった。私が割り振られたのは倉庫の中の仕事だった。毎朝五時に食事をして、六時に日本人が現場に連れて行った。七時に仕事が始まり、ずっと倉庫の中で働いた。
 ・日本で働いている間じゅう、私たちはいつも腹ぺこだった。質の悪い小麦粉で作ったマントウが一食に一個ずつだった。昼は仕事をした場所で食べたが、やはりマントウ一個だった。全員が飢えていて、骨と皮ばかりにやせ細っていた。病気になった場合は、働けないからという理由で一日二食に減らされた。
 ・私たちは毎日毎日、汽船から積み荷を下ろす仕事をされられた。牛馬のように働かされ、革の鞭の下で日々を過ごしていた。一言で言うならば、それは戦争犯罪人に肉体を破壊され、侮辱と抑圧を受け尽くした日々だった。
 ・1945年4月ごろ、アメリカの爆撃機が大阪を空襲し始めた。至る所が火の海になった。爆撃機が落とした焼夷弾のために、あちこちに火の手が上がるのだ。そのとき、私は倉庫の外で仕事をしていたが、不運にもその焼夷弾で頭部を焼かれてしまった。髪の毛と耳が焼けて、なくなってしまった。爆撃機が去ってから、倉庫の親方が二人の人に命じて、私を担いで病院に運ばせた。そのとき、仲間たちの中では私一人が負傷した。顔が腫れ上がり、目は開けられなかった。入院しても、治療してくれる人たちが何を言っているのか分からないので、しばらくして私は宿舎に戻ってきた。一日おきに二人に担がれて病院に行き、薬を塗り替えてもらっていた。けがした後は当然何の仕事もできない。帰国するときになっても症状は良くなってはいなかった。お金など一回ももらったことはない。
 ・空襲を受け、作業現場一面が火の海と化した。意識が戻ったときには、私の容貌は変わり果てて化け物のようになっていた。ありがたいことに、日本の友好的な医療関係者たちの救護によって、どうにかこうにか命だけは取り留めた。このときから、私は四肢が不完全で五官が機能しない人間になったのだ。
 ・私は働く力を失った。日本で耳を焼かれ、両手にも障害が残っているので、家に戻ってからも働けないままだ。家族に及ぼした影響も大変深刻なものだった。
 ・私のけがのせいで、我が家の生活はとても苦しかった。これ以上やっていけないということで、兄弟二人は別れて出ていった。帰国後、けがの治療はできていない。生活にはかなり不便がある。右耳は全然聞こえない。
 ・息子も妻も病没したので、三人の未婚の娘が私の面倒を見てくれていたが、次女もすでに亡くなっている。