孫文斌 [事業場名簿で董久高]

築港085 〔本人証言1995年12月14日付け手紙(河北大学経由)〕
〔本人証言1998年1月20日河北大学整理)〕

 ・1940年、石家荘の警務部門の試験を受けて合格した。それから元氏県の駅警務分所に、銃を持った警務員として配属され、日本軍の管理の下に置かれた。そこでは1日に付き 5.5元の賃金が支払われていた。
 ・1944年の夏26才の時、突然日本の特務に捕まり、元氏憲兵隊に連行された。その日に石家荘の警察署に送られて尋問を受けた。彼らは八路軍との往来状況を聞き出そうとしたが、それに一切答えずただそんな事はないと言い張った。一時間ほど尋問が続いたのち南兵営(石門捕虜収容所)に送られた。
 ・南兵営では第1・第2と二つの部に分けられていて、第1部にいる時には主に労働をし、第2部では訓練が主だった。
 ・第1部にいる時には大きな三角屋根の平屋の建物に寝起きしていた。その建物は大体 100メートルの長さはあった。建物の中には2列の通しの木の板の寝床があって、その2列の中間に4人は肩を並べて歩けるくらいの通路が一本あり、床の上には破れた筵の他には何一つなかった。
 ・毎日毎日労働させられた。朝は6時に起き、それからすぐに顔を洗い駆け足をして朝食を食べる。外に出て午後3時までぶっ続けに働いて、それから帰って来る。そして4時に食事が始まる。1日2食の毎日で、晩の食事が終わってしばらくすると、今度は歌を歌わされる。そして暗くもならないうちに中に入って寝る。
 ・寝る時には私たちは着ている服を強制的に全部脱がされる。班単位で服と靴を分けて2つにくくる。寝る時の姿勢は仰向きだけが許されて横向きはだめだった。顔をくっつけてひそひそ話をするなどもっての他。例えば横たわったまま互いに目で合図をしたりすると逃亡を企てたということで、軽くてめった打ちに遭うか重い時には地下の穴蔵(深さは3~4メートルあり、穴の口は直径が約1メートル、井戸の底の方には10数個の壁を掘って作った洞窟のような穴が開けてある。それぞれの穴は人間一人がうずくまって座れるほどの大きさしかない)に投げ込まれる。建物の中の明かりは一晩中つけっぱなしだったし、2人の日本兵と2人の買収された中国人の看守がそれぞれ銃剣付きの銃を背中に下げて休みなく中央の通路に沿って行ったり来たりして監視している。用を足したい者は先ず「報告」と叫んで、許しをもらってからやっと素っ裸の身体で広場にある便所まで走って行く。
 ・第2部なった時に私たちは"大東亜建設隊"となることをはっきりと決められていた。その要員は第1部の時とは少し違ったが、大多数において変化はなし。劉振起が大隊長に指名された。食事の時、大隊長がみんなに向かって「このご飯は誰が与えて下さった物か。それは日本の天皇が下さったのだ』」叫ぶ。そして全員が声をそろえて「いただきます!」と言って、それから一斉にしゃがんでご飯を食べ始める。
 ・石家荘の南兵営での訓練が終了してから、薄い掛け布団のような白い綿布が一枚、粗末な綿の毛布が一枚、ひとえの上着が一枚、シャツが一枚、ゴム底でひとえの布張りの靴が一足、白い靴下が一足、これだけが各自にそれぞれ支給された。そのあと日本兵によって塘沽の強制収容所まで護送された。
 ・塘沽に連れて行かれ、逃亡を相談していたが、突然日本人の警備室に連れて行かれた。そこでの拷問で、現在も私の両足にはその時の傷跡が至る所に残り、右手の人差し指の関節にも傷が残って一生消えることのない障害を残している。
 ・大阪での生活はひどく、食料も腹半分目しか与えられず、着ているものもボロボロの服で、拾ってきた爪先の破れた靴を履いていた。冬でも単衣のままで宿舎には火の気もなく氷の家のように寒かった。板張りの宿舎での生活は本当に堪え難いものだった。
 ・冬の雪の日にも綿入れさえない。石家荘を出発する時に支給されたあのひとえはとっくの昔に破れてしまっている。天地が凍るような寒さの中で身体を守る服すらない。毎日いつも通り1キロか 1.5キロの道のりを歩いて港まで行き貨物船からの荷卸しをしなくてはならない。寒さを防ぐために、生きて祖国に帰るために、異国の地で凍死させられてしまわないためにある人はあの小さな掛け布団の真ん中に穴を開けそれを頭からかぶって紐で身体にくくりつけ綿入れのコートの代りにした。またある人はあの粗末な毛布を切って袖なしの服に縫い直した。針も糸もないので針金を針の代りにして麻袋の麻縄を糸にした。靴が破れるのが一番早かったから、しかたなくゴムを一枚一枚拾ってきては足にくくって靴と靴下の代りにしていた。風呂の設備などないから、毎日の仕事の行き帰りに通る大通りで街の小学生や子どもたちが私たちを見掛けるとみんなあわてて鼻をつまんで「クサイ、クサイ」と言った。私たちはこうした言葉を聞いたあとは、とてもいやな気持ちになった。まったく、国が弱いと人はばかにされ国が敗れると民は奴隷にされるということなんだ。
 ・1945年4月のある日、朝食が終ってから9時すぎぐらいの頃、大阪署から警官がやって来て連れて行かれた。守口警察署(門に大きな表札が掛かっていた)では、地面に敷かれた石炭の燃えかすの堅いところにひざまずかされたり、鉛筆を指の間にはさまれて力一杯締めあげられたりした。何度尋問しても私がいつも同じ答えしかしないもんだから、最後には自分たちで何か書いて私にサインさせようとした。それを私に拒否されると、今度は私の手をつかんでむりやり指に朱肉をつけ指紋を押させた。そこから茨木警察署に移され数回の尋問を受け、さらに高野警察署に移された。
 ・帰国してみると、私が捕まって愛妻の病は癒えず、私を待ちわびながらついに死んでしまったことを知った。