秦登嶺 [事業場名簿で秦登苓]
川口175 〔本人証言、1996年8月、北京市で聞き取り〕
〔本人証言、1999年8月、原陽県で聞き取り(張忠杰)〕
・1944年7月19日、原陽県で拉致され、そのまま汽車に乗せられて済南に運ばれた。
・済南の新華院では、ずっと空腹で、着るものもなく、殴られてばかりだった。小便や大便に行くときにも報告しなければならなかった。もし報告しなかったら、黒と赤に塗った棍棒でこっぴどく殴られるからだ。
・日本への船に乗るとき、日本人は銃を突きつけて無理やりに乗せた。船倉の中にはたくさんの鉱石が積まれていた。その上に横たわるしかなかった。
・船が嵐に遭って、ひどく揺れた。立てない、眠れない、死んだらおしまい。便所なんか行けない。吐いたり大小便の垂れ流しでいっぱいになった。
・船の中で目が悪くなって、川口に着いて十日ぐらいで目が見えなくなってしまった人がいた。みんなが労働に出掛けた後、一人で宿舎に置かれて、ご飯もうまく食えない。だんだん下痢になった。腹も悪くなり、しまいに体にノミがいっぱいわいてきた。目が見えなくなってから十何日で死んでしまった。
・大阪でやらされた主な仕事は、船に荷を積んだり船から荷を下ろす仕事だった。朝食は二個のマントウと一椀のスープだった。午前中に働いた場所で昼食を食べた。腹一杯になることなど一度もなかった。
・大阪の宿舎には警官がいて、北の柱のところに一人座っていた。出入りの人数を調べて管理しているのだ。黒い制服を着て、二十センチぐらいの短い銃剣を持っており、三人で交替していた。
・当時は二十歳、どうしても腹いっぱいにならないから、ベルトをきつくしめて我慢した。重労働させておいて、あれだけの食事で足りるわけがない。
・ある日、洗剤を下ろしていたときのことだ。非常に重くて、洗剤にむせて涙が流れだしたので、荷物を置いて顔を洗っていたところを日本人に見つかり、何度もビンタを張られた。
・宿舎の北の隅の柱のところを二間、仕切って病室にしていた。風邪を引いたとか、小さな病気のときは、できるだけ行かないようにしていた。病室へ行くと気が滅入る。病気になると昼飯抜きになる。最後にはホームシックになる。我慢して労働に出た。焼夷弾でやけどをした曹さんを、しょっちゅう病院に連れて行っていた。
・川口では旧暦の正月だけは休んだが、あとは一日も休みがなかった。
・家にたどり着いたが父親が亡くなっていた。家へ帰っても独りぼっち。連行されるとき両手は空っぽ、帰ってきても両手は空っぽ。どうして生活していけばいいか、とても困った。