史克成

築港038 〔本人証言1995年8月21~23日、保定で聞き取り〕

 ・1944年6月のある日、家族みんなが寝ていたが、夜中の1時ごろ私の家の庭に何人もの人間がなだれ込んできて、ドアをバーンと蹴り破って部屋に押し入ってきた。日本人は私を張り倒し下腹部を蹴り上げた。痛くて立ち上がることができなかった。武装した保定警務段(鉄道沿線警備隊)の日本人6人とそこで雇われている中国人の特務が数人いた。日本人はピストルをかまえ、民間人の服装をした特務はみな銃をかまえて私や家族を脅した。
 ・銃を突き付けられ脅されて、父と私、家で働いている労働者1人と魏棟儿、手習い2人の6人がすぐ後手に縛られ家から連れ出された。日本軍は私たちだけでなく、村の男を狙って捕まえにきたようだった。6月頃は夜明けが早く村人は朝早くから畑へ仕事に出る。警務段の者は寺の前の畑へ通じる道を陣取り、通るものを片っ端から呼び止めては捕らえていった。名前を呼び止められた者は、周りを武装した軍人と警務段に取り囲まれなすすべがなかった。日本軍に銃で脅され誰も反抗などできない。警務段は名簿を照らし合わせながら名前があるとその人を捕らえた。逃げないよう縄で連なって縛られ15、6人が連行された。私の家の6人のほか、八路軍に塩を送っていた王石頭、石門で殺された張花子、北海道で死亡した史黒子、大阪へ一緒に連行されることになった尢樹田、魏金林、趙大雪、王徳様、于合群、楊春海、村人ではないがここに住んでいた閏黒子が一緒に捕まった。まず、日本軍のトーチカがある大祝寨へ歩いて連行され、トラックに乗せられ何人かの日本軍は監視でいっしょに乗りこんだ。他の日本軍や警務段は5、6台の車に分乗し保定の警務段へと向かった。100人ばかりの兵と警務段はトラックの荷台に、士官は軍用車に乗っていた。この辺りは八路軍と日本軍が拮抗しており激戦地だったので、日本軍の警戒はたいへん厳重だった。その日すぐ保定の警務段に送り込まれた。
 様々な拷問があったが、ひどいのは電気刑で、電気の通じる椅子に座らされ両手を縛り付け感電させられた。スイッチを入れられると瞬間にくらくらとめまいがして頭がカーとして、体が痺れて何もわからなくなった。日本人が主に尋問し通訳がついていた。拷問をするのはほとんど手下の中国人だった。
 ・大阪に着くと港にある消毒場へ歩いていった。外で裸にされ、その日は曇りで肌寒い中、消毒風呂のような所に数人一緒に漬けられた。たくさんの人が入っても液を取替えないので水が汚く濁っていた。消毒風呂の中に入って沈み、液をかけてさっと出た。とにかく臭い水だった。
 ・寝るとき下に敷くものとして俵の開いたようなものと粗末な薄い綿入れのかけ布団をもらった。本当の綿でなく綿を作るとき飛び出すわたクズで、種も入っていて使っているうちにすぐごろごろと偏ってしまった。
 ・その後1年間以上何も支給されなかった。冬の間もぼろぼろの薄い服一枚きりで寒くてたまらず、セメント袋を拾ってきて服の下に入れ、寒さをしのいだ。布団の布を引き裂いて身につけている人もいた。
 ・大阪の作業場で最悪なのは靴がないことだった。鉄鉱石のような尖った堅いものが散らばっているので裸足では危険がいっぱいで、よく足を切り怪我をした。国を出たとき履いていた布製の靴はとっくの昔にすり減っていた。鉄鉱石を扱ったとき鉱石が私の足の上に落ちてきて怪我をした。
 ・ある日のこと、夜12時ごろ夜食がでた。私は食べおわり船の下の倉庫で休んでいて寝込んでしまった。「仕事しろ!」と監督が言って人数を数えたが、一人足りないので探していて倉庫で寝ている私を見付けた。監督は上から大きな板を投げ入れ、板はあちこちにぶつかり跳ねて私の方に飛んできた。おかげで頭に大きなこぶができた。
 ・後に帰国してからわかったが、私が捕まった後、労働者の魏棟儿の母親がやって来て私の母に向かって「うちの子は、同じ仕事場で日本人に捕まえられた。うちの子を返せ」と言った。私の母は「自分の子さえ帰ってこないのに、あなたの子を返せるはずがない」と言い返したそうだ。我が家で働いていた魏棟儿は大阪に私と一緒に強制連行され病気になってしまい、もう1人片手のない人がいて、会社の人の話では、もう働けないから国に帰すということで2人は先に中国に帰された。しかし、2人とも故郷には帰っていない。