劉兆玉

川口091 〔劉加才(甥)の証言、2004年4月、原陽県で聞き取り(張忠杰)〕

 ・私は、叔父が身をもって体験した事柄を聞いている。1943年7月、叔父は県城で日本人に拉致された。そして北関駅から汽車に乗せられて、開封、徐州を経て、山東省の済南に送られ、新華院という大きな監獄のようなところに入れられた。
 ・新華院で働かされた一ヵ月余りは、大変苦しいものだった。食べ物はわずかしかなく、着の身着のまま、おまけに殴られてばかりいた。いつも山でガソリンを埋める仕事をさせられていた。夜寝るときは、特に見張りが厳しかったそうだ。便所に行くときにも大きな声で報告しなければならなかった。そうしないと殴られるからだ。
 ・その後、叔父たちは日本兵に銃を突きつけられながら汽車に乗せられ、青島に運ばれた。翌日、日本に向かう船に乗せられた。船の中で食べたものは、トウモロコシの粉とニンニクだけだった。それ以外は渋くて苦い海水を飲むしかなかった。叔父たち数百人は船倉の石炭の上に横にならされた。船酔いのせいで、多くの人たちが動くこともできない状態だった。
 ・大阪の川口では、主に埠頭での荷役の仕事をやらされた。荷の大部分は日本が中国から略奪してきた穀物などだった。毎朝一碗のうすいスープを飲んでから、埠頭に行って働かされ、昼食は埠頭で食べ、暗くなってからようやく仕事が終わったそうだ。このように、飢えを満たす食事もなく、寒さをしのぐ服もなく、怒鳴られたり殴られたりの日々が続いていた。叔父は八十四歳で亡くなった。